元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

都心に越してきてよかったこと(-外車に乗っていても家は四畳半風呂なし)

都心に越してきてよかったこと(-外車に乗っていても家は四畳半風呂なし)
20世紀の終わりの頃、横浜某所の1Kボロアパートから麻布のマンションに引っ越した。結婚して2年ぐらい経っていた。マンションといっても築15年程度の1LDKでセレブリティな雰囲気のカケラもなかったが、見える景色は激変した。すべてが変わった。アパートは繁華街の真ん中で環境は劣悪だったが、そこからいきなり閑静な住宅街へ。。
何がいいたいかというと、オレの人生においてこれほど難しいミッションはなかったし、これからもこれ以上難しいのはないような気がするのね。すべてが無謀だったから。特に金銭的に。
でも、実際やったし、やっただけのことはあった。得るものも大きかった。その後の人生の「軌道」が大幅に変わったし。というか自分で変えたのだから、満足感が高いわけ。

<都心に越してきてよかったこと(-外車に乗っていても家は四畳半風呂なし)>
たとえば「麻布に住んでいます」と聞かれてもいないのに自己紹介して、優越感に浸るために引っ越したわけでもありません。他人との関係性よりはやはり、自己満足のためです。

他人には、「都心の散歩好きが昂じて本当に引っ越してしまった」「通勤ラッシュが嫌いだから」と言っています。それは表層的には正しいのですが、本当は、「自分はさまざまなことから自由である」ということを他人に主張したかっただけなのだと思います。お金がないのに、借金してまで。。

他人におぼえてもらう「個性」としては、都心に暮らすというのはよかったかもしれません。それは、副産物のようなものです。

未だにわかりませんが、そのときに、何か強制力のようなものが働いているのです。「都心に引っ越さなければならない」という何か。そういう「お告げ」のようなもの(何かこれに代わる言葉はないでしょうか。。)には常に耳をすませておかなければなりません。
なぜなら、実際自分はその言葉に従ったことにより、ある程度満足のゆく生活にステップアップすることができたのです。自分を良い方向に導いてくれるものであれば利用しない手はありません。
(略)
引越しのトリガとなった事象は、今でも鮮明におぼえています。三田小山町の不動産屋でみた、ガラスに貼ってあった賃貸アパートの紹介でした。そこには、「3DK 150,000」と書いていました。(それは、はっきりとおぼえています)それを見て「こんなに安いの?」と思いました。そのとき住んでいた横浜のちょっと新しめの物件と変わらないじゃないか、と思いました。

今思い返せば、なぜその不動産屋でそのチラシを見たのかわかりませんが、おそらく吸い込まれるようにその不動産屋に近づいていったのでしょう。。

そこから、自分の物件探しが始まりました。実際引越しを実現させるまでに1年かかりました。
環境を変えよう、自分を変えよう、と「頑張っていた」時期なので、その頃のことを思い返すとナツカシさがこみ上げてきます。

その物件は、おそらく、三田小山町のちょっと高いところにある古い物件で、今は建て壊されて新築の住宅になっているはずです。
その頃は地下鉄も開通しておらず、JR田町、地下鉄六本木それぞれから徒歩20分ぐらいかかり、バスが充実しているとはいえ利便性が良い物件であるとはいえませんでした。

「外車に乗っていても家は四畳半風呂なし」という考え方が自分は好きです。自分も同じようなものです。(都心に暮らす低~中所得者層)
本当に好きなのであれば、覚悟があれば、よいのではないでしょうか。この言葉は、多分に妬みを含んでいると思うのです。思い切れない大多数の人たちから「思い切った」人たちに対して。。

「思い切った」人が失敗すると、「それみたことか」となります。そもそも思い切ったことが賞賛されない。では、「思い切らない」ほうが偉いのでしょうか? そうは思わないのですが。。