街へ出る、世に出る
最終的には、他人にうらやましがられるような人生を送らなければならない、と思っています。
最期だけ「そこ」で終わる、といいますか。。
「最終的には」がキモであって、常にそれが目的ではあってはならない。
ということも理解しているつもりです。
それでも、そこを突破して「他人にうらやましがられたい!」と叫ぶ気持ちは忘れないようにしたいです。
坊さんが、一生山に篭って「修行」の名をかたって安住するのではなく、最終的には街へ出てきて、悟ったことを庶民に教えるべきである、 というのと似ているような、似ていないような。。
「似ている」といってしまうと傲慢なのでしょう。
「教える」というのは、エラそうに講話をたれることではないのです。悟ったまま庶民と同化するということ。