元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

日本的霊性

日本的霊性

日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

宗教の最後の立場は受動性の認得であると言ってもよい。それでよく鏡 の譬えの 出ることがあるが、ここに一枚の鏡がある。そこで、その前に月があれば月が映る。川があれば川が映る。(略)あらゆるものが、そのままに 映る。これは鏡に 受動性がないというとできない。鏡がその鏡たるものをみずから働き出させると、山や山でなくなり、(略)鏡もまた鏡の本質を失うのであ る。鏡の鏡たるとこ ろは、その受動性にある、そのみずからのないところにある。宗教的意識の最後の立場は、このみずからの受動性に徹底して、本来の無一物を 明らかにするとこ ろにある。それで宗教的信仰心を木石に譬えたりすることがよくある。(略)
宗教的立場から見る木石は、その心のない、情感のない、無意識のとこ ろを見るのではなくして、木石が我というものを立てないで、向うから来る客観的・環境的条件に相応して動く、すなわち万物が鏡に映るよう なところを見ているのである。(略)
しかしただ受動性と言うと、また誤られることもあろう。(略)心はう つすだけ ではない、そこに一つの行為性のあることを見なくてはならぬ。単なる受動でなく、その実、受動のうちに能動がある。(略)鏡には映すとい うがある。物が鏡 に映る、鏡は物を移す。うつるは受動性で、うつすは能動性である。(略)
鏡には、ああすべく、こうすべくと言うように、すべきはからいをもた ないところに鏡そのものがある。なんらの計画性をもたないところに、鏡の受動性の本質がある。またこれを「自然法爾」の姿とも言うのであ る。