元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「努力してるけどすましている」

「努力してるけどすましている」

という、「生き方」とでもいうのでしょうか、そういうのがいいなあ、というのは、おそらく子供の頃から考えています。

常にそうありたいと思っています。それを実践するカンタンな方法は、余計なことをしゃべらないということです。そこまではわかっています。

自分の周りには、それに近い感じで頑張っている人もいるのですが、「最後の局面ではぶちまけたい」というか。。

バーのマスターや、小料理屋のママに、「オレだって頑張ってるんだよ!」とぶちまけてしまうようなイメージです。最後の最後で。

それを悪いといっているわけではなくて、自分の目標は「最後まですましている」ということです。

まあ、このブログ、日記の類が「最後の局面」にあたるといわれてしまったらそれまでなのですが。。

ただ、結果を出さないと何ら意味はありません。

結果が出ないから、最後にぶちまけたくなるのでしょう。

結果というのは、継続して水面下で努力してきたという事実を周知する手段です。

他人からみればいきなりあいつは結果を出しやがって、というふうに見えます。結果を見せつけることにより、「あいつは人が見ていないところ でこつこつ努力していたのか。。」と認知させることができます。

結果により認知させることができなければ自分で言ってしまう他ないのです。


「努力してるけどすましている」の正反対の生き方、つまり、人に努力を見せつけている人には要注意ですね。

これは、ルーティンワークにすべきものをルーティンにできず、常に非日常のものとして「頑張ってるんだぞ」と強調してしまう輩たちの話と似ていますね。

ブログで日記を淡々と公開しているのはまた別なのでしょうけど。。 それはルーティンワークの一部でしょう。


山形 浩生さんの本の中にありました。「ハッカー(古い本なので「ハッカー」という言葉が使われています)は努力の跡をみせない」という話で。。

「バグがあったんでちょっとパッチを適用してみたよ」としらっとしているが実際のプログラムを見るとすごく努力した跡がみられる。。と。そ してそのパッチも、ムダなものではなく皆の役に立つものであり、皆から尊敬を受ける。。

尊敬を受けながらも「あいつ、楽しそう」と思われるという。。

尊敬を受けるベースは、このハッカーのケースであれば「技術力」です。その「技術力」を得るために、過去にも努力してきたのだろうなあ、と いうオーラのようなものが透けてみえてくる。。(わかる人には、わかる)

で、スパイスとなるのは「チョイ悪」なのでしょう。法スレスレのことをやって颯爽とくぐりぬけてゆくのがカッコいい、と。

なるほど。。これが自分の理想の生活なのかな? 違うような気もしないでもないですが。。

ひとつの自分から自分への意見としてたまわりましょう。