喜怒哀楽が激しいって器が小さいってことじゃないの?
タイトルのようなことを突然思いついてしまいました。。
のでしばらく考えてみようかと思います。
感情の発現について我慢をしてはいけない、という言説がありますよね。
怒りたいときは怒ればいい、笑いたいときは笑えばいい、と。。
現代社会において、組織なり集団をスムースにまわしてゆくために、皆が我慢に我慢を重ねた結果として、組織はまわっているのかもしれないが個々の ストレスは最高潮に達している、と。。
あるいはその反動として陰口のメールなりメッセンジャーの文句は激烈になってきたり、それこそツイッター云々に匿名で汚い言葉で書き連ねられた り。。
ま確かに、それも一理あります。でも日本人である我々は喜怒哀楽を皆が露わにしていたらこの国のオトナの組織や集団はほぼ、成り立たないというこ とを知っている。そして、そういう人間をパージする傾向は、確かにあります。(「絡みずらい」「扱いずらい」)
私は知りませんが、「類は友を呼ぶ」のでしょうから、世の中にはそういう人間だけが集まり、かつうまくいっている組織や集団があるのかもしれませ ん。
果たしてそういう集団がクリエイティブでありこの国を変える原動力になっているのでしょうかね。ちょっとわかりません。
さて、この国で「大人」(たいじん)と認められる人間で喜怒哀楽が激しい人間は、皆無です。
ということは「大人」になりたい人間は喜怒哀楽が自由であってはいけないということですね。
「大人」と認められたくないと頑なに拒む方であれば問題ないのでしょう。
僕のイメージでは「大人」は常に微笑を絶やさないような。。それでいて人を安易に近づけないオーラがあり。
そうなるまでは大変なのでしょうね。そこに至るまでには「喜怒哀楽」をすべて出し尽くすような経験が、あったのかもしれません。
と、いうことは、「大人」になる過程で「喜怒哀楽」をすべて出し尽くすような経験が必須、というまとめになりますね。うまくまとまりました。。
僕も一度はそういうふうに発散したい、とたまには思ったりします。
でも、そういう経験はあくまで、「大人」になるためのステップということで、一時的ということですね。