元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

日本人とは何だろうか (鶴見俊輔座談)

日本人とは何だろうか (鶴見俊輔座談)


日本人とは何だろうか (鶴見俊輔座談)

日本人とは何だろうか (鶴見俊輔座談)

日高(六郎):(略)田舎のほうで先祖代々、村でみそ、しょうゆ、酢などをつくっている人の話を聞いた。彼がいちばん心配しているのは、その村に スーパーが進出してくることだという。もしそうなったら、村民がテレビで広告している大手メーカーの商品を買うようになる。そして何百年かつづい た醸造業が一つ村から消えてゆくことになる。こうした点で、革新自治体はまったく無力ですね。(略)現実に地場産業の育成といったって、大メー カーに全部押されてしまう。たとえば、昔はみそ、しょうゆはみな町や村や、場合によっては個人の家でつくっていた。それは、ある意味では、安心し て食べられ、巧みに味をつくり出すことのできる食料品だった。いまは、みんな防腐剤を食べさせられている。なぜ日本人の六十パーセントがキッコー マンを買わなければならないのか。


高畠(通敏):(略)たとえば、全共闘の学生が生きがいを情念化したときに狂ってきたとよくいわれるが、問題は他のかたちの生きがいがあるという ことです、生活に根ざした生きがい、平凡だがはりのある暮らしのなかの生の充実感というものがあって、それは、たやすく情念化される種類のもので はない。フロンティアの生活から生まれるこういう生きがいにくらべれば、サムライは自分の生活をもっていないわけです。あれは忠誠や武士道という 観念で生きているわけで、自分の畑を耕し、牛を追っているフロンティアーズ・マンが日常現実的に直面する問題と違う次元で生きている。(略)三島 の生命力が衰えてきて、それを補償するために観念的な不死というものにすがったということですけれども、しかしそういう創作力の枯渇イコール生命 力の枯渇と感じること自身、限られたインテリ層の問題であって、民衆は別に毎日毎日創作していないといって生命力が枯渇したと思わない。別なかた ちの生の充実感というものがやはりあるわけです。それを組織化し表現するという作業こそが知識人が担うべき種類の問題だと思いますね。地? 0h$GLdBj をかかえて苦闘している婦人たち
が、実際に毎日生き生きしてくる。その生きがいは全共闘の学生が感じている生きがいと違うんですよ。
(略)
日高:三島の場合は、いわゆる文武両道であって、せいぜい文士と武士でしょう。だから士農工商といったときの農工商が脱落している。
(略)
鶴見:文士は、同じことばをくりかえし使うと、そのことばを最初に創出したときと違って、自分で書いてもシラケルし、読者もシラケてしまう。その 意味で、大学生たちがシラケるというのと、よく似ている。三島の読者は、大学生が多いし、その部分を動かしたということでしょう。この世の中は、 文士だけが暮らしているわけではない。(略)たとえば岡本太郎のような芸術家は、三十年前に言っていたことと同じことを言っても、本人は喜んでい られる。同じリズムになっている。都はるみが歌っているのも、同じリズムでしょう。それはシラケやすい全共闘の学生たちとは違う生命のリズムに なっている。(略)酒屋の主人と奥さんの場合でも、毎日が同じ生活のリズムでありながら、少しもシラケていない。自分の店の酒を売ることに一生懸 命で、時間がないわけだ。子どもが三人いるけれども、テレビが子守りをしてくれるので助かるといっている。その子どもが育ち、将来、少し手が抜け るようになれば、ヒマができるというので、楽しみにして、心おどるものがあるらしい。そういう境涯は、三島および大学生には、おそらく考え? $i$l$J いことではないだろうか。
加藤(周一):同感ですが、それは三島だけの問題ではなくて、日本社会における小説家のかなり多くの部分にもあてはまる。
高畠:しかし水上勉司馬遼太郎の作品を読む層は明らかに違いますね。
(略)
日高:三島が、自分の肉体がひじょうに貧弱であるということで劣等感を感じたときに、なぜ百姓をしなかったか。
加藤:そう、そう。
日高:なぜ鉄アレイをやったかという、そういうことだと思う。
加藤:それは彼の美的エロティックなからだなんでしょう。肉体というのは美的なものでエロティックなものであって、労働する肉体じゃないと考えて いる。
(紹介おわり)
「民衆は別に毎日毎日創作していないといって生命力が枯渇したと思わない。」


スーパーマーケットという「箱庭」で、無農薬だ、無添加だと騒いで食品を選んだところで、カップラーメンをやめて「生ラーメン」を選択したところ で、何ら意味はないのです。
スーパーマーケットに行っている、という時点で。