元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

フヴィクトール・E・フランクル

空を見上げれば無数の星がきらめくこの宇宙。どこまでも続くこの果てしない宇宙の中で,今・この時代・この時,この地球の・この国の・この場所 に,なぜかこの「私」が置き与えられている。
一見単なる偶然に見えるこの事実。しかし,考えてみれば,果てしなく続くこの時間と空間の中で,ほかのいつでもない今・この時代・この時,ほかの どこでもないこの国の・この場所に,自分が置き与えられているということには,やはり意味がある。自分で選び取ったのではなく,気づいた時には選択の余地なくそこに定め置かれていたからこそ,このことにはただそれだけで,意味があると思わないではいられないのだ。
私たちは何をしてもいいし,何もしなくてもかまわないような存在ではない。ここにいてもいなくてもかまわない。そのような,ただ放り出されている だけの存在ではない。
私たち一人ひとりには「なすべきこと」,「充たすべき意味」が与えられている。そしてそれと共に,今・ここに定め置かれている。そしてその「何か」は,私たちによって発見され実現されるのを「待っている」。私たちは,常にこの「何か」によって必要とされ,それを発見し実現するのを待たれている,そういう存在なのだ。