元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

豊かな生活

昔、yahooメルマガで投稿していたのですがひっそりとツブれてしまい、その文章をgooのブログに移行しました。

この頃の僕はわかってらっしゃる。。(自画自賛モード)

■ひとり公論・30代男子成長記録(30〜40代大卒男性向けメールマガジン)vol.084 2007-05-12 08:02:50

豊かな生活、というのは、自分でそのようにしてゆくものだと思います。他力でそうなってゆくわけではない。

と、いうことは、「何が自分にとって豊かな生活か」を自己分析する作業が大事になってきます。

それは、必ずしもマスコミで流布されているものではないのです。マスコミというのは最大公約数的な情報の集まりですから、確かに総論としては「ありきたりな」豊かなライフスタイルを提示しているかもしれませんが、それは、マスコミ本体とコマーシャルを流している企業の思惑ににより操作されています。

豊かな生活の定義は、ヒトそれぞれなのです。それをまず理解し、自分にとって豊かな生活は何か、を考え直して、それを自信を持って他人に誇れるようにし、常に揺ぎなきものにしていかければなりません。

もしかしたら、そのライフスタイルは若干の誹謗中傷を伴うものかもしれないのです。

法にふれず、人様、親類、家族に迷惑をかけない範囲であれば、どんなスタイルでもいいし、どんなちっぽけなことを支えにしてもいいのです。必ずしも、カネがあってブランド品集めておいしいもの食べて高いハコものそろえて。。という典型的な成金行動が「豊かさ」の証左であるわけでもありません。

そして、豊かな生活というのは、「義務の遂行」がベースとしてあります。義務を放棄して豊かな生活は成り立たないのです。

豊かな生活の入り口で、義務を放棄してしまうヒトがいます。
その理由はふたつ。

ひとつは、「しらーっと」義務を放棄しても、「誰にもオコラれない」場合に、そのまま何となく放棄したままにしてしまうケース。昨今マスコミを賑わせた「給食費未払い問題」などはこのケースでしょう。

もうひとつは、義務を放棄して楽になることが、さらに豊かな生活を送るための必須条件である、とカンチガイしてしまう場合。
「豊かな生活」イコール義務に縛られないことである、という考え方です。

「『楽』イコール『豊か』?」のトラップに引っかかるヒトは多いです。このようなヒトは、瞬間的に楽になることにより、すぐさま怠惰に堕していきます。
怠惰に堕すという時点で豊かな生活を一方的に放棄したことと同じです。

豊かな生活のキーワードのひとつとして、「苦行でない義務の遂行」ということが挙げられます。

義務の遂行というのは一種の社会貢献です。
義務の遂行とは、社会的責任をまっとうすることである、と言い換えてもよいでしょう。

それは、現在「物質的に」豊かな生活を享受している恩恵を、「義務の遂行」というかたちで社会に還元するということです。

それができないヒトは、真に豊かな生活を送る権利すらないのです。それは単なる社会インフラのタダ乗りであって、社会的に軽蔑されるに値する行為です。
軽蔑されるヒトが豊かな生活を送れるはずもありません。

(社会貢献を「ボランティア」という言葉におきかえれば、皆さんお好きでしょう?)

ところで、義務というコトバから、「縛り」とか「苦しい」というコトバが連想されたりしますが、義務すなわち苦しいということではありません。

豊かな生活とは、その義務を選択できる権利が与えられるということです。

社会貢献にはさまざまなカタチがあります。必ずしも華々しいモノ(たとえば、一般的に「ボランティア」というコトバから想像される行為など)だけではありません。
そして、金銭を得るための「仕事」は、ほとんどの場合社会貢献になっていることを忘れてはいけません。

また、それらに優劣もありません。
アフリカの恵まれないコドモたちに食料を供給するのと、道に迷っているヒトに正しい道を
教えるのと、どちらも大事ではないですか。
もしかしたら、アフリカに行くまでの過程で膨大な燃料を消費することにより、その行為は最近皆がキラう「地球にやさしくない」行動になっているのかもしれないのです。

たとえば家のお掃除をしたらそれは(「家を清潔にキープしておく」という行為は)、その家に住む家族に貢献していることになりませんか。

無償でやっていようがお金を得ていようが、社会貢献に変わりはありません。
金銭を得ているからといって卑下する必要もありません。

その、義務の選択において、マスコミの影響は排除する必要があります。

「義務の選択」とは、「社会貢献」というショーケースに並んでいる「ボランティア商品」から選択するようなものではありません。

「自己満足に陥らない行為」であれば、ほぼ「社会貢献」になりえます。
つまり、積極的に「世の中の役に立ちたい!」と、鼻息を荒くしなくともよいのです。

その行為により皆が幸せにならなくとも、家族や隣人が幸せになれば、それでもよいのです。

そして、自分が犠牲になる必要もないのです。それも、豊かな生活を送れるヒトの特権です。

ある「継続的な」行為により、自分も楽しい気持ちになり、周りも楽しい気持ちになれれば、それでよいのです。

「継続的な」というのは、大事です。細く長く続けられること。その瞬間だけでなく、ずっと先まで成果を上げられること。

願わくば、長く続ければ続けるほど、成果が大きくなればなおよし、です。
成果が「大きくなる」とは、たとえば最初は2人しか楽しい気分になれなかったものが、数年続けたら何百人の役に立つことになった、とか。。

ただしこれはあくまで「願わくば」です。何百人でなくとも、何十年も2人だけを楽しい気分にさせるのであれば、それはそれですばらしいことです。

結局、おのおのができうる範囲で行う社会貢献がすなわち「義務の遂行」ということです。

これを忘れてしまっている方、非常に多いですね。

日本は豊かになりましたが、それは、その時代その時代の各自(各世代)の頑張りの集大成です。

その時代に、成長、豊かさを実感できていたヒトたちは、意識する/しないに関わらず社会貢献を行っていたはずです。かつての「庶民」のヒトたちは、自分たちが何者であるかを知り、
自分たちに課せられた「義務」を自然に受け入れ、ホントはイヤだったかもしれませんが、それを遂行していました。

その「義務の遂行」から逃避する人間は、地域社会から放逐されたのです。

なぜ、人びとは「義務の遂行」を忘れてしまったのか。あるいは、意図的に忘れようとしているのか。

その答えはカンタンで、そのように教わってきていないからです。

個性を重視する「ゆとり教育」では、義務の遂行に対してさえ、「個人の自由」を行使して異議を唱えることができます。

「自由」というのは義務の遂行をベースに成り立っているということを誰にも教わる機会がない。

アナタがひとときの「偽自由」を謳歌できるのは、社会においてたくさんのヒトたちが義務を遂行しているからなのです、と教えてあげるヒトがいない。

教えないほうが悪いのではありません。教えてもムダだから、教えてあげようと名乗り出るヒトがいなくなってしまったのです。
現代社会では、皆さんそれほどヒマではないのです。

教えを乞う側が謙虚な姿勢にならなければ、教えてもムダです。

「豊かな生活」の話に戻りますが、極端にいえば、真に豊かな生活とは、自分の人生のすべてを「義務の遂行」にあてている状態です。
先ほど書いたように、「義務の遂行」とは苦行ではありません。
苦行でない「義務」を選択できるのも、豊かな生活を送れるヒトの特権です。

さすがに全人生を義務の遂行にあてるのはムリかもしれませんが、「自己満足」を求める行為を極力排除しようとする姿勢が豊かな生活につながります。

そして、生活が豊かであるということは、真の意味での「自由」であるということです。

これを矛盾と感じるでしょうか?
自分の人生のすべてを「義務の遂行」にあてようと努力しているうちに、どんどん自由になってゆく、ということ。

私は、これを矛盾とは感じません。でも今は、「なぜそうなのか」を説明することができません。
そう感じるだけです。

もちろん、自分がそのような状態になっているはずはありません。ただし、そうありたいと願い、努力は始めています。

自由の意味をとり違えているヒトたちは、いつまでたっても真に豊かな生活にはたどりつけないということですね。
まず、それに気付くことから始めないといけません。