元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

坐禅

凡人が坐禅したところで悟りは開けません。それは、完全に自明です。

人間は、存在自体がすでに悟っているという話は聞いたことがあります。
いいかたを変えれば、「悟りを開くことが可能な」存在なのでしょう。

仮に我々が、悟りを開くことが可能なのであれば、それは、「自覚」によって生まれるものではありません。
自分がそう思うのではなく、他人や状況が自分をみてそう判断するということ。

自分が「自分はもしかして、悟ったのでは?」と考えた時点で思考停止、終了でしょう。

悟りの境地はカンゼンなる日常から生まれるのでしょう。という意味で坐禅という非日常的「イベント」からは生まれ得ません。

禅宗の僧侶のヒトたちは、それは知っています。意図的に隠しているのかどうかはわかりませんが。。

坐禅をすると確かに、静かな、「澄み切った」心境になれます。ただしそれだけであり、そしてその場で終わりです。
コトバを選ばずいえば「だから何なの」ということです。