元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

日常と非日常

「日常が修行の場になるように、日常を変えてゆくべきである」と、最近思ったのです。

そう、思いこみましょう、ということです。
人生すべてが、「修行」ではありません。それではあまりにストイックすぎます。人生における「日常」部分のみ。
とはいっても、人生のほとんどは日常なわけですが。。

日常が修行でないと、非日常がくっきりしてこないのです。日常と非日常の境目があいまいであってはいけない、と思います。

人生は苦しいものである、というのはよくいわれることですが、それはそのとおりなのですが、現代人がこの文明社会で何を享受できているか、といえば、我々が恵まれているのは、人生のうちの「日常部分」だけなのですね、苦しいのは。

たとえば狩猟社会で、常に獰猛な動物に囲まれて危険にさらされているわけではない。(たとえが極端ですが。。)
農耕社会で、常に天候に生き死にが左右されるわけでもない。


非日常をくっきりさせるためにも、日常で「修行」すなわち精進していかなければならない、と、思います。
この「修行」については、他のコトバが思い浮かばないのですが。。
カンタンにいえば「日々精進」でもよいのかもしれません。