元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

今まで積み重ねてきたもの

アラフォー人生(約40年)の人生で自分が積み重ねてきたものというのは、膨大です。僕に限らず。。

自分が今まで達成してきた、細かいことの積み重ねを考えると、ニヤけてしまいます。(よくやったなあ、と。。)

失ったもののことは、「失った」と考えなくともよいのです。それは必要はなかった。失う必然性があったから失ったというそれだけのことです。


ある程度の期間一緒に歩んできた妻は。。今はもうだいぶ治りましたが、
自分が達成してきたこと、ではなく、失ったもの、そして、「持っていないもの」しか見つめていませんでしたね。

やれ家がない、庭がない。クルマがない。ヒマがない自由がない。

夫婦で、そして家族で得てきたもの、積み重ねてきたものに対してはすべて知らんぷりを決め込み。。
ないものねだりの権化でした。

ホントウに、はためでみていて、楽しくなさそうな人生だなあ、と。。

専業主婦の妻は、知らんぷりしていますが、僕が稼いだおカネでものすごくたくさんのモノを得てきました。
大きなテレビ、ウォッシュレット、食器洗浄器、ハイテクな洗濯機、大きな冷蔵庫、高級な一眼レフカメラ、たくさんの服、そして、「都心に暮らす」ということ。

カネ! カネ! カネ!!
今カネがないのだとしたらそれは、使ってしまったからですよ。

彼女が得てきたものは、それらはすべて彼女の「権利」で、彼女自身でつかみとってきたものである、と考えています。
だから、感謝がない。感謝がないから、どこまでもブラックホールのようにないものねだりが続く。

感謝がないから、以前よりこの日記で書いている「通奏低音としての不満足感」をいつも抱えてしまっており、常に軽いストレスになっているわけです。


おそらく、僕の少し下の世代だからだと思います。世代間の考え方の相違というのは、厳然と存在しています。