元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

柔軟な対応

柔軟な対応

いくら自分が、タバコの煙が充満している居酒屋の店内がキライだといっても、たとえば接待の飲み会で居酒屋を使うのであれば、また、相手がヘビースモーカーなのであれば、それに従います。

「柔軟な対応」とはそういうことでしょう。

でも、呼ばれたら、呼ばれたことに感謝しその場にはせ参じますが、その場で、自分はタバコがキライだ、ということは表明するかもしれません。

そうしないと相手がつけ上がるかもしれないからです。

そこで、頑なに自分のポリシーを押し通す(このケースであれば「飲み会にいかない」)ほうがカッコいいのでしょうか?

そうは思いません。この例でいえば、私の個人的な問題である「タバコ嫌い」を我慢してその接待をこなすことにより、新しい仕事の依頼があって、将来的に家族が安泰になるかもしれないからです。

将来的に家族を楽にさせることを選ぶほうが、たかが自分だけのポリシーを押し通して自己満足するよりも、カッコいいです。

ちょっと例が悪かったかな。。 ビジネスチャンスだから、自分のキライなことも我慢する、というのはちょっと違って。。

要は、公の場では滅私するのが当然、と思っているということです。

でも私は、他人にはどうやら、「頑な」な人間と思われることが多いようで。。

「頑な」というのは「私」を通すこととは違うのです。

「滅私を通す」という考え方も、あります。

ただ、滅私を続けることにより「アイツには主張がない」とナメられたくはない、と。。

世の中には、自分勝手に、滅私する相手をそう考えてしまう人間がいますので。

そもそも我々は、常に世の中と関わって生きているわけで、仙人のように山奥に逃げ込むわけにはいかないのです。常に「人間関係」に巻き込まれなければならない。それにより恩恵をこうむることもあるでしょうし、不快に感じたり、それどころか被害に遭うこともあるでしょう。

ですが、そもそも論として、現代人というのは「超」社会的な動物なのです。高度な次元で「世の中」や「他人」と関わっていかなければならない。こういう時代に生まれ育ったからには、その「スキル」が必要になってきます。