元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

人間関係を極小化する

豊かな生活を送るためには、「つきあい」とか、そういう人間関係を極小化するのが必須要件かと思います。

ということを聞いて、矛盾を感じるヒトがいるかもしれません。

たとえば、当人の葬式のとき、たくさんの人間が弔問に訪れたら、「ああ、その人は幸せな人生だったんだろうな」と、当の死んだ人間以外は感じるのかもしれない。

でも、ホントにそうでしょうか? 死んだ人間は、上から葬式の様子をながめて、「ちっアイツ全然連絡よこさないクセに葬式だけはきやがる」とか「あいつにはカネ貸して返ってこなかった」とか、葬式にはわらわらと、ただの「つきあい」だけだった人間が訪れてきます。

死んだと聞いて、集まる人間の数の多さと、幸福度合いが比例するとは限らない。
交友関係が広いイコール幸せな人生とは限らない。

そんなことは、よく考えればあたりまえのことです。


さて、考え方を変えてみれば。。

真に豊かで、幸せな人生を送っている人間は、たとえ本人が、「つきあい」を極小化しようとしたところで、それなりに人間は集まってくるのです。

そういうものです。「つきあい」を極小化してみたら、誰もいなくなった、というのであればその人間に問題があるのでしょうし、まず自分をふりかえって自分を変えてみるべきです。

ヒトが集まるかどうかは確かに、本人の「器」によるところも大きいのですが、それは「真の友人」が集まるかどうかについてだけで、
ただわらわらと「知人」を集められるかどうかと、そのヒトの「器」はそれほど関係ないので、心配しなくともよいと思います。

カネや権威をちらつかせればヒトは集まります。自分のカネでなくともよいのです。ビジネス・シーンでも、会社で扱えるカネが増えてくれば営業さんは揉み手をして寄ってきます。「夜の世界」でも同じですね。
それを否定はしていません。手っ取り早い手段としては有効です。