元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

死(明るい意味での)

多生の縁 玄侑宗久対談集

多生の縁 玄侑宗久対談集

    • 私の心の奥底にある「儒教的ガンバリズム」の影響ではないかと私なりに思ったわけです。何と向かい合った時でも「頑張って勝つ」という対処法を、私たちは子どものころからずっと教わってきています。いい学校、いい会社、いい人生をめざして頑張る儒教的ガンバリズムは、ある年齢まではいいのでしょうけれども、きっと人を幸福に死なせはしないと思ったんです。「頑張る」というのは我を張るわけですから、仏教的には非常に良くない言葉です。死に対しても頑張って勝たなくてはいけない、死ぬことは負けだという発想がどこか深くにあって、本人が死を自覚していても周りがその心を受け止めてあげられないのだなと、自分の体験を通して感じたのです。
    • (略)
    • 人生は右上がりにどんどん良くなるものであって、それが終わるのは負けだという発想が、なぜか日本人には強い。
  • 松原(泰道)老師との対談にて、松原老師の発言
    • 曾野綾子さんが書いていましたね。人間の最期は不条理きわまるものだと。善人の最期が必ずしもきれいではなく、悪人の最期が必ずしも苦しむものではない。不条理である。そこがいいんだとね。善人の最期がきれいだときまっていたら、善人は傲慢になる。悪人の最期が苦しいものだと決まっていたら、悪人は卑屈になる。番狂わせがあるのが、人生の本当の意味だと。だから死の価値を量るのは愚かだと。どんな死に方でもいい。その縁を大事にして死んでいけばいい。だから、うんうんと苦しんでいくのも、一つの風流だと。そう考えると、安心するでしょう。