元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「自洗脳」(思い込み)を解くことから!

個性とはそういうこと(「自洗脳」を解くこと)なのです。

自分が意識していないけれども、カンゼンにとらわれてしまっている「横並び意識」を自分で取り去ってゆくこと。

横並びでなくなればよいだけのハナシです。そこで、「個性的だから!」と鼻息荒く傍若無人になることはないのです。

個性的であるということは横並びのヒトたちよりは自由であるということであり、自由であるということは秩序を自ら大事にするはずです。

なぜならば、自由であるということは自己責任も重くなっているということ。
(そうか、自己責任が重くなるのがわかっているから、ヒトは横並びの洗脳を自ら解こうとはしないわけですね。。)

自由であるからといって「秩序を自ら壊す権利がある」わけではないのです。

そこをカンチガイしているヒトたちが、「自由である」ということに対する世の中のイメージを、悪くしてしまっています。


僕の考える理屈では、「実るほど 首を垂れる 稲穂かな」と同じで、自由になればなるほど礼節を保つようになる(そうならざるをえない)ということです。

横並びの陰に隠れるのでなく、自ら、ひとりひとりが「世の中」に対してフロントに立つ意識があれば(自由とは言い換えればそういうことです)自然、生き抜くために礼節が大事であることは、学ぶでしょう。
(学ばなければ、また「横並び」に戻るか、破滅するか、どちらか)


自洗脳を解くことができたら、次は、戦後日本にうすーくかかっていた「他洗脳」を解いてゆきましょう。いわゆる「戦後民主主義」という思想。。

いきなり「他洗脳」を解くことから始めるのではなく、自洗脳を解くことからはじめましょう。たいがいのヒトは他洗脳から解こうとして、失敗しているように思えてなりません。

横並び意識から離れて、生きてゆけるという確信を持っているヒトだけが、強固な「他洗脳」に立ち向かってゆくことができます。