元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

偉大なる第一歩?

  • 偉大なる第一歩?

いつもの日常から一歩踏み出してみよ(さすれば人生が変わるやもしれん)、というのはよく言われることです。

これは実はまったくご大層なことではないのです。


まず、毎日歯をみがきます、ふつうのヒトは。この僕ですら1日2回ぐらいはみがきます。

歯ブラシに歯みがきチューブをつけて、さあ口にいれよう、というときに、どこにいれるか?

人間は、いちばん得意なところ、つまり、自分がいちばんみがきやすいところに歯ブラシをあてます。

そこからブラッシングをはじめるので、どうしてもみがくのは、最初に歯ブラシをあてたところ中心になります。

それ以外のところは汚れが残るので、歯垢がたまったり口臭の原因になったり、冷たいアイスがしみたりします。

でも、ふつうのヒトは、まんべんなく磨いてるつもりなのです。だから、なんで自分ばっかり虫歯になるのだ、などと考えてしまう。

でも実は、最初にブラシをあてたところ以外は、ないがしろにしているものです。


最初にブラシをあてるところというのは実は、ブラッシングがラクなところです。
ふつーのヒトはまずそこにいく。そして、自分がラクしてるんだという意識は、まずありません。


と、いうことで、「偉大なる第一歩」は、歯ブラシをまず上奥歯のウラ、いちばんみがきにくいところにあてるのです。

そこを中心にブラッシングするようにする。それを習慣にするだけで、人生が少しだけ変わってゆきます。
(これを読んでバカにしてるヒトは。。やってみればわかります)


カンチガイすべきではないのは、それを習慣づけなければいけないということ。2、3回で投げ出してしまったら人生変わるわけはありません。それどころか、2、3回で投げ出したという事実が残るのだから「人生」には悪影響です。


ところで、小さな一歩を踏み出すべし、というハナシのとき、(僕の得意分野である)散歩がよくたとえで出されます。
よくいわれるのは、最寄り駅のひとつ前で降りてみよう! とか、ちょっと回り道して別な道を通ってみよう! とか。


これもなかなかムズカしいというか。。「面倒くさい」とか「そんなん意味あんの?」とかいわれると、たじたじになってしまいます。

確かに、ちょっとやってみた、レベルではぜんぜん意味はありません。習慣化しなければ意味はまったくありません。


習慣化というのはムズカしいところで、ひとつ前の駅から歩くことが固定化されてしまうとまたそこから次の一歩を打たないといけないような気がしてきます。

でも、ひとつ前の駅から歩くことが常態となった時点で明らかに人生は変わっています。少なくとも、脳に入ってくる視覚情報は劇的に入っています。その、変わってきたインプット情報が脳内、ひいては自身に及ぼす影響というのは、相当あります。人生はじわっと変わってくるはずです。


これに対して、疲れるからイヤだとか面倒くさいとか、まずネガティブな反論を言い出すヒトたちは、自分の人生を自ら限定しています。
つまり、自分で自分のレールを敷いている。そういうヒトほど、なぜかムカシは「レールが敷かれている人生なんてまっぴら」なんて思っていたはずなのです。

面倒くさいといってるヒトは、自力では「面倒くさい」ので他力で人生が変わってほしいと願っている。

人生このままでいいとココロから願っているのであれば「疲れるからイヤだ」はスジが通っているのですが。。
そういう願いをもっているヒトというのは、ほぼいないといってよいです。この現代社会においては。。
だから、誰もが「偉大なる第一歩」を踏み出さなければならないのです。