元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ヒトを蹴落とす罪悪感

人生観、のような、思想の話

  • ヒトを蹴落とす罪悪感

カネ儲けをしてある程度までいったヒトは、今度はやたらと「社会貢献」といった方向に目を向け始めます。

つまり、ビジネス・シーンで上りつめてゆくことに対して、潜在的であっても若干の罪悪感を持っているということです。
ビジネス・シーンで成功するということは、他人を蹴落としてゆくということですから。
成功の陰では、何人、何百人もの人間を失敗においやっているわけですからね。
恨みもかうでしょう。

で、「禊」をしたい、と考える。。
「罪滅ぼし」に走る。


人生をトータルで考えたときに、金銭的に成功してかつ、その後の「罪滅ぼし」までやってはじめて、満足感というものが発生するらしいのです。

どちらかひとつだけでは、ダメなのですね。

そこまで完遂するのは相当、ムズカしいことだと思います。
金銭的に成功するのも至難の業ですし、仮にそこまでいったとしても、カネに溺れず、たとえば社会貢献などの「罪滅ぼし」の方向に自分を向けることはもっと難しいかもしれません。

多くのヒトは、儲けたカネを、儲けた分だけきれいさっぱりと使ってしまって(あるいは儲けた分以上使ってしまって)、堕落してゆきます。


僕が考えるのは、この方法論を目指すのは非常に難しく、かつリスキーなので、人生の「満足感」を得るために、もっと近道を考えましょうよ、ということです。

要は、人生の終焉の時期に、「なんだかんだで、良い人生だったなあ」と思えればよいのです。
波乱万丈はそれほど必要ではないのです。何百人を敵に回したり、ヒトに恨みをかったりする必要もないのです。


さて、じゃあどうするか?

その「別の」方法論というのは、この日記に散りばめて書いているつもりです。「地球」やら「世界」に目を向けずにまず周りから、とか、「身の程を知る」とか、「日課を愚直に継続する」とかそういうことです。

そして、満足感を得るためには、不満足感に直結する要素を、できる限り、シツコいぐらいに排除してゆけばよいのです。
「やりたいことをやる」よりも「やりたくないことをやらない」人生のほうが幸福です。

だから、そのためには自身を知ることが必要。自分は、どうすれば、どういう状態に陥れば「不満足」なのか、自身の正直ベースを知ること。

そのためには、自身とまず向き合わなくてはなりません。