元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

仕事とプライベートとの主従関係

人生観、のような、思想の話

  • 仕事とプライベートとの主従関係

自由に生きるための不自由、とか、まあよく言われることですが、自由に生きるためにまず僕は(対外的には)せっせと掃除洗濯、子育ての支援などを行い「不自由」を満喫しています。

「満喫」というのはつまり、物理的時間を拘束されるということ。

でも、その対価として、ギリギリまで時間を拘束されてしまった上でのプライベートな時間ぐらいは、「勝手に」生きる権利がほしいと思っていますし、それはある程度実現されています。

そのプライベートではある程度お金も使います。
(ほとんどお酒を飲んでいたりして。。)

ただし、不自由な時間のストレス発散のための自由時間というわけではありません。

それでは拘束されている時間が「主」で自由な時間が「従」のような関係になってしまいます。

ライフサイクルがそういう関係性にならぬよう常に注意を払っています。


僕の場合は、自由を「勝ち取る」イメージです。勝ち取っているからこそ、貴重なのです。
仕事をびしっとこなして(まだまだひよっこではありますが)、仕事に時間を供出することにより「会社」「企業」ひいては「世の中」から自由を勝ち取り、家では家事子育てに積極的に参加することによりプライベートを勝ち取る。

村上春樹さんも自身のエッセイで同じようなことを書かれていた記憶があります。(ものすごく共感できたので、おぼえています)

村上さんは確か、プライベートな時間というよりは自身のそもそもの性格(内向的?)を大切にするために、自由を勝ち取るのだ、といったようなことを書かれていました。

奥様や他人に、社交的でないことをなじられていた時期があって、それに対して、なんとかグウの音もいわさないようにしたい、と。


そして、「勝ち取る」という強烈に主体的な行動イメージから脱して。。
僕が最近思いますのは、自由に生きるための不自由というよりは「不自由に生きるための自由」なのではないかという気が、しています。

このフレーズを思いついたときに、なんだかひとつステップを上がったような気がしました。

僕は、不自由に生きようとしているなあ、と。。
ということは、先ほどプライベートとそれ以外の主従関係について書きましたが、やはり僕の人生は「課」が主で自由な時間が「従」なのかなあ、と。

そんなことを、考えますし、これからはそういう考え方を基本にしてもっと考えを深めていければと思っています。