元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

健康で文化的な、最低限度『以上』の生活

本来の日記部分

夜中になっても、コドモらが寝ずに騒いでおり、部屋が散らかっていたのでブチキレてましたね。。
僕がコドモより暴れてしまって。

でも僕の暴れ方は理性が効いていて、散らかっているコドモのおもちゃを皆、おもちゃボックスに叩きつけながら片付けるという。。

でもそのおもちゃはみな、叩きつけたのでコワれましたね。コドモはもうボーゼンと見るばかり。

人生観、のような、思想の話

  • 健康で文化的な、最低限度『以上』の生活

「健康で文化的な最低限度『以上』の生活」をできるかできないかというのは、「センス」なのでしょうかねえ。。

誰でもできるのだ、と庶民が皆思い込んでいるところからして、不幸のような気がしてなりません。
誰でもそうなれると思いこんでいるから、じゃあなぜ自分はなれないのか? という疑問を持ってしまう。

誰もがそうなれるわけではない、という世の中の共通認識があれば、そんなことで悩むことはなくなる。


芸能の世界というのはムカシは高嶺の花でしたが、今は、ブラウン管の向こうの人材の品質が低下しているがために、誰でもなれると思われつつあります。

が、実はそうではない。そうではないのは当たり前のはずなのですが、誰でもなれるのだ、というほうが共通認識になってきているので、それも現代社会の不幸のひとつかもしれません。


「健康で文化的な最低限度『以上』の生活」をする、というのは、「小金持ちになる」のと同じぐらいの難易度であるというふうに認識をあらためないとなりません。

ところで前者と後者は、イコールではありません。
前者と後者がイコールであるという共通認識があるから、現代社会は不幸なのであって。。
と、また堂々めぐりになってきます。


確かに、社会インフラという点では先達の血のにじむような努力によって整備されてきました。我々世代を「健康で文化的な最低限度の生活」をできるまで押し上げてくれました。
この点は感謝しないとなりません。

ここから先は精神の問題と絡んでくるので、大事なのは共通インフラではなくて個々です。個々の意志の強さとガンバりにかかっています。

この現代社会において強い意志をもったり、ガンバったりすることすらセンスなのです。