「京」
my格言・my座右の銘(自作自演)
- 反面教師:テレビとヒトのウワサが中心の会話を永遠に上滑りさせてゆくヒトたちのハナシが面白くなるはずがない(20070828)
再録
地方の「京」への憧れというのは結局今でも変わりません。私はそれを身をもって実感していた一人です。
ただし、平安の世と現代とで絶対的に異なるのは、現代は、憧れるのみならず、物質的に模倣ができるぐらいに技術が発達しているということ。
「模倣しませんか?(モウカりまっせ)」という「営業」が跋扈するようになったこと。
ただし、精神まで模倣はできないのです。結果、日本のどこもかしこも同じ景色になってゆく、という改悪が生まれています。
でもそれは、多数の地方のヒトたちが望んだこと。それを今さら「地方の独自性を云々」といわれてもムシがよすぎますね。ではなぜ、自分の地域が「東京化」してゆくときにその意見を出さなかったのか?
ということは、ある程度の「東京化」はちゃっかりと享受して、その上でそういう「独自性」をうたっているのではないか?
順序が逆ですよね。
ハナシがちょっとそれますが、どの地方も、やっきになって観光資源を発掘して、それを加工して宣伝のラインに乗せようとしていますが、あれもどうも、違和感があります。
たとえば、私の育った田舎の、現在の観光名所というのは、私がコドモの頃はすべて未発掘でした。地方ニュースにしか登場しないような場所で、わざわざ観光にやってくるようなところでは決してなかった。
それが今では、おそらく道も整備されて、観光土産も開発されたりしているのでしょう。
地方の総観光地化が進んだのはここ10〜20年ほどです。
どこの県知事、首長も観光地をアピールしている。あれは「東京化」ではないけれど、各地方の独自性というのは全くでていません。地方横並びで、「あそこがやってるならこっちも」「追いつきおいこせ」ですね。日本得意の模倣と横並び主義。。
そのムカシは、地方が「京」を模倣するもなにも、「京」以外の場所は、「京」に農産物を貢ぐための土地にすぎなかったわけですから、模倣しようもなかったのです。
ですから、画一化が進んでいるということは幸せなことでもあるのでしょう。平等主義はニセモノですが。。