元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

不可解な柔軟性

本来の日記部分

  • 体調

鼻水にシフトしてきましたね。。

再録

「柔軟性」については以前書き出していました。
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一定の期間、マニュアル通りに作業を遂行することを「簡単なこと」と切り捨てる、妙なプライドを持っている人に限って、「無用な柔軟性」を発揮して、チームワークを乱したり、仕事の生産性を無駄に下げたりします。それどころか、その「無用な柔軟性」がエスカレートしてゆくと、遅刻したり欠勤したり、仕事に穴を空けたりします。それならばその仕事に就かなければよい、ともいえるのですが、「自分はこんなことをやっている人種ではない もっとクリエイティブなことをやりたい」みたいなことを本気で考えているんですね。ある職種にふさわしい人は、必ず仕事に引き合わせられるチャンスがめぐってくるはずで、チャンスがこない人は、単に向いていない(世の中が求めていない)ということだと思います。

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すべて自分の都合の良いほうに考える「柔軟性」についていけないことがあります。

メールで、あえてぼかして、自分の行間のニュアンスを相手に強要するとか。依頼のメールでも「〜してください」とはあえて書かずに。。でもニュアンスで依頼する。

依頼されたほうは「依頼しているんだろうな」というニュアンスは感じつつも「『〜してください』と書いていないから、これは依頼ではない」と思い込むほうを選択する。後で言い訳ができます。

依頼したほうは、「あれだけ行間に『におわせた』のだから、やってくれるだろうという『認識でいる』」。この「〜という認識でいた」というのが最近の曲者ですね。その「認識」はほとんどの場合独りよがりなのです。

「Aを買ってきてほしい Aがなければいらない」と頼んでも、「無用な柔軟性」を発揮してBを買ってくる、とか。。

「BはAと似てたから それに自分もBがほしいし」とよくわからない言い訳をする。

この例、ちょっと違うな。。 たとえがヘタですね。

とにかく、最近の世の中の会話においては、確認をとっていないにも関わらず相手はこう思っているはずだ、という「認識」ばかりが一人歩きします。その「認識」というのは相手ではなく自分にとって都合のよい解釈ですが、相手は相手自身にとって都合のよい解釈をするのですから、話がかみ合うはずがありません。

ビジネスにおいてもそうですし、プライベートでもそうです。

「時間を守らない」というのが顕著な例です。とある内部の打ち合わせについて、「これは重要ではない」と各々が自分の都合のいいように重要性を勝手に解釈して、遅れる。あるいは、出ない。