元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

天災による死、人災による死

死、あるいは宗教に近い話

まったくの他人である百瀬さんの死から僕が学んだこと。(あくまで推測です)

個人的なウラミなどで殺意を持った人間に追われるのも、核兵器の恐怖が間近に迫るのも、とにかく、どのような構図であろうとも、自身に「死」が眼前に迫ってくるという意味においては同じだということ。
自分が死ぬかもしれないというとき、自分だけ、だろうが、自分含む世界中の人間だろうが、どちらでも知ったことではありません。ヒトを死に至らしめようとする「努力」は、それは個々人の暗殺だろうが、核ミサイルのボタンを押す、だろうが、同じに思えてきたのです。

ただし、同じ「死」であっても、自身の病気が迫ってくるのは、また違うような気がします。
それは「寿命」に近いものです。

交通事故というのはこれはまた中間の位置づけで。。 まったくの偶然性による「通り魔」に近いですよね。殺意のある人間に追われているわけでもありませんし、それはおそらく突然やってくるものです。
ですから「寿命」に近い、ともいえますし。
でも病気と同じくくりにしたくはありませんね。交通事故は「人災」ですから。

「天災」と「人災」か。。

自然災害による死。大地震とか。

防げるものと防げないもの、という区分けになるのでしょうか。

でもそう考えると、核ミサイルは僕一人の力ではどうにも、防げませんし。。

考えてみると、人類が自身を死に至らしめる、というのは大きく考えれば、自然が操作している「天災」といえるかもしれませんね。

わからなくなってきた。死と向き合って考えるというのは、なかなかキツいものです。

いきなり「核」が出てくるのは最近「ニュークリア・エイジ」ニュークリア・エイジ (文春文庫)を読んだからです。

再録

二面性について、もう少し考えてみました。
昨日は、「二面性」はもう諦めたほうがよいのでは、という結論に達しそうでしたが、ちょっと意見が変わって。。

二面性にもいろいろある、といいますか。

自分が憧れているのは「夜は別な顔」的な二面性で、「そっち方面」は捨てましょう、と。でも、そうでない二面性もありそうです。

「そっち方面」は、今自分が、「人として」進みたいと考えている方向と違うのです。

「そうでない二面性」とは、たとえば。。

「二面性」というよりは「ギャップ」なのでしょう。たとえばバリバリの企業戦士なのにも関わらず、実は朝は早起きして近所の掃除をしているとか。。

たとえがイマイチですね。。

でも、「夜」ではなくて「朝」という考え方は、良いと思います。私のアンテナもやっと「朝」に向かっていますので。。

実はラジオ体操好きで、朝は一緒に体操をやる老人の人たちとの交流がある、とか。。

「○○なんだけど、実は◎◎」という公式にあてはまればいいわけですね。

「朝」はおいといて。。

「バイトなんだけど、実は貯金一億」とか。。

これは「ブラスト公論」の「3枚のカード」と同じ考え方ですね。もろ影響されている。。 このカードは2枚ですが。。

「3枚のカード」の中では、高橋芳朗さんの「カード」の中の「“スポットの当たるなにか”志望」というのが、すごくよくわかります。私の心の中にもそういう思いがありますので。。

二面性については、次でおしまいですかね。。