「喝采」 いつものように幕が開き。。
自分について
- で、「喝采」
僕は、「スポットライトのあたるステージで喝采を浴びたい」という欲求が、ありますね。
オトナになってから、大人数の前で話をしたり、発表したことがありません。
せいぜい10〜20人の前でプレゼンするとか、そのぐらいです。
その思いの原点になっているのは、コドモの頃の「発表会」関係でしょうかね。
劇やピアノの。
その根本にあるのはサービス精神だと思うのです。つまり、たくさんのヒトに楽しんでもらいたい、と。その見返りとして、金銭的なものではなく、ただただ「喝采を浴びたい」と。
という意味では「スポットライトのあたるステージで喝采を浴びる」というのは比喩的表現なのかもしれない。
ところで、企業ではこの「喝采手法」(?)を評価にとりいれていますね。
うまく説明できないのですが「皆で讃えあう」といったような。。
大人数で集まって(「スポットライトのあたるステージ」をつくる)、賞状でもってとある部門、個人を表彰する。
これは、モチベーションを向上させるウマいやり方です。(と、斜に構えてはいけませんね、反省)
そういうステージで発表(サービス?)する、という状況に飢えているわけです。自分から出てゆかないくせに。。
でもそれをできるのは選ばれた人間だけである、という遠慮(?)があります。
若い時分は、「閉塞した状況」に対して「なぜ自分を(ステージに)呼ばないのか?」とホンキで考えていました。バカですね。。
なぜバカなのかといえば、考えているだけで、実践がないからです。
そもそもなぜ呼ばれないのかといえば、ステージに上がる資格がないから。アタリマエですよね。選民意識の妄想だけ肥大化しているのですから。
今でも同じように考えています。実は。でも、ムカシと違うのは、僕はそれ以来、常々「なぜ自分を呼ばないのか?」と考えながら、とどまることなく努力してきた、という自負があります。その努力というのは、アンダーグラウンドな場所で。。
バクゼンとした表現ではありますが「だいぶ成長したな」と思っています。
自分は大器晩成型だと確信していますので、そろそろ。。
再録
(略)
他人には、「都心の散歩好きが昂じて本当に引っ越してしまった」「通勤ラッシュが嫌いだから」と言っています。それは表層的には正しいのですが、本当は、「自分はさまざまなことから自由である」ということを他人に主張したかっただけなのだと思います。お金がないのに、借金してまで。。
他人におぼえてもらう「個性」としては、都心に暮らすというのはよかったかもしれません。それは、副産物のようなものです。
未だにわかりませんが、そのときに、何か強制力のようなものが働いているのです。「都心に引っ越さなければならない」という何か。そういう「お告げ」のようなもの(何かこれに代わる言葉はないでしょうか。。)には常に耳をすませておかなければなりません。
なぜなら、実際自分はその言葉に従ったことにより、ある程度満足のゆく生活にステップアップすることができたのです。自分を良い方向に導いてくれるものであれば利用しない手はありません。