テレビという名の怪物 久々
こうありたいまたは反面教師
- テレビという名の怪物 久々
早起きすると「早起きしてなにしてんの?」ときかれ、テレビはみないといえばヒマなときナニしてんのといわれ。。
そういう同化押し付け勢力に対しては、「いえ、無音、無画像状態でいいのです」と。
テレビを見るヒトと、見ないヒト(「無音のヒト」)との差は、後でじわじわと出てくると信じて疑っていません。
でもその差とは何か?
テレビというのは、出しっぱなしの水のような気がするのです。それを、大してノドも乾いていないのに皆、惰性で飲み続けている。
。。下痢しますよ、と。
再録
先日、社会保険庁の、自分の年金納付情報がわかるというID、パスワードを入手し、年金額試算というのを気軽な気持ちでやってみたのですが。。 自分が65歳以上になったら国からいくらもらえるのか、というその額は正直、舐めていると思います。(「予測の値なので注意」という但し書きはありましたが。。)
年金額納入が自分の家計に与えてきた負荷、影響を考えると。。 確かに、事情により未納の期間もありますし、全免の期間もありました。それにしても少なすぎやしませんか? と。
自分は、それほど国のインフラというものを湯水のようには使っていないと思うのですが。。もう少し将来の年金額(つまりこれは、お金そのものというよりも、将来の「安心額」です)に充当してくれてもよいのでは、と思います。
国のために何とかしよう、という気持ちは、しぼみますね。この感情は、果たしてこちらが傲慢なのでしょうか? 国の、年金を「払ってやるよ」という申し出に対して、無条件にひれ伏して受け入れなければならないのでしょうか。年金は本当に、「出るだけありがたい」のでしょうか。
なぜこのような感情がわき起こるのかというと、自分はけっこう「日本」というものは好きで、この国のために何か貢献したい、と本気で考えていたりするのです。それは、国のために特攻する、といった軍国主義上の愛国心とは少し異なります。
今日は、自分の65歳以降の「基本給」がはっきり数値化されて理解したという、記念すべき日です。
国には頼っていられない、国家という存在とはもう少しドライに接するべし(期待すると裏切られる)、ということが明確になっただけでもよしとしましょう。
それにしても、自分は本来大病をしてますし、65歳以上まで生きる確率は相当低いのですが。。 そう考えると余計アホらしいような気もします。
年金で生活する、と考えるから卒倒しそうになるのであって、それを小遣い、というか、純粋に投資に充当できる資金と考えれば、よいのでしょう。
というよりも、そう考えるしか選択の余地はないでしょう。となると、老後の生活資金(もし、「老後」まで生きたらの話)は、貯金などのそっくり別な手段で確保しなければならない。。
(略)
今後はどうなるかわかりませんが、企業の厚生年金は、老後夫婦がそれなりに暮らしてゆけるぐらいの額がある、と聞きます。
企業が積み立て金を半額ぐらい補助している、というのもありますが、今後もっと自助努力を要求され、厚生年金が今後少しずつケチられていったら、長期間同じ企業に忠誠するモチベーションというのはどこに求めればよいのでしょうか。
会社の、優秀な頭脳を受け入れる(または、流出させない)ためのサービス、施策としての「福利厚生」が、ムダであるという理由でどんどん削られてゆきます。賃金も、横並び主義で基本給はどこもほとんど変わりません。そのくせ、優秀な人材はもちろんほしい、と。。
それではいったい、優秀な人材を引き寄せるためのセールスポイントはどこにおくのでしょうか?
仕事面でしょうか。まさか、「ウチはやりがいのある仕事ができる」なんて、いわないでしょうね。。 それは企業側の思うツボです。 それに乗ったら、安い賃金で泥沼のように働かされます。
「ウチは、仕事は楽だけど給料はそれなり」とか、「天引きが非常に多いが、将来の退職金、年金支給額がすごい」とか、「むちゃくちゃ仕事をやらせるけど、給料はすごい」とか、そういう特色があるとわかりやすいのですが。。
これから転職・就職活動が売り手市場になってくると、こちらがその特色から、チョイスできるようになるのでしょうね。
企業面接で「弊社を選んだ理由は」と居丈高に(さらに、誇らしげに)訪ねる面接官とか、それに対してありきたりな美辞麗句を並べてその会社に「雇ってもらおう」という媚びへつらいとか、そういうものに対してものすごい嫌悪感を持っています。
雇ってもらいたい理由は、まず「お金ありき」でいいじゃないですか。給料が高そうだから、または、給料はふつうだが楽そうだから、とか、企業を選ぶ際の選択肢は結局その二択なのではないですか。
給料は気にしないが、「自分のやりたいことができそうだから」という理由は、アリなのかもしれませんが、キケンですね。。
それは、結局「やりたいことができなかった」になるか、やりたいことが社内で見つかって死ぬほど働かせられるか、どちらかの道を歩むような気がします。