元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

個人よりは「家」

人生観、のような、思想の話

  • 個人よりは「家」

僕は、他人からみて常に「気になる存在」でありつづけたいと考えてきました。
「存在」というコトバには外見も少しは含まれます。外見は重要ではない、と言いたいところですがそうもいかず、外見というのは存在を規定するのに非常に重要なファクターであります。それをあらためて感じはじめたのは、年齢を重ねてきてからです。
それに加えて重要であると考えているのは、「インテリジェンス」。。まァ「教養」と置き換えてもいいのかもしれません。「知識」は今の時代、マスコミ(主にテレビ)を通じて洪水のように入ってきますので、そのメタレベルということになりましょうか。
今ほど「教養」が軽視されている時代はないので(反動でまた盛り返してきていますが)、この時代に教養で他人との差別化を図るのは実は、ラクです。(ムカシよりは)

それとインディペンデントであること、でしょうね。たとえばいわゆるサラリーマンのヒトたちは、独立してかつ成功している人間に対して異常なほど興味を示すことがあります。
つまり、どうしても気にはなるのです。「独立している」という事実だけで。

最後に、「礼節」です。これも「教養」と同じように、今ほど礼節が軽視されている時代はありませんので、礼節で他人との差別化を図るのも容易です。

はっきりいって僕は教養も礼節も知らずに育ちました。(親が放任だったというのもあり。。言い訳ですが)それでも、オトナになってからリカバリ可能なのです。僕は「社会にもまれ」て、いろんなところに頭をぶつけながら「礼節」をおぼえたような気がしています。そして、オトナになってから、あるときに自身の教養のなさに絶望して、そこからある程度リカバリをしてきたという自負はあります。(さきほど書きましたとおり、昨今は教養があまりに重要視されないために、相対的にリカバリするのはラクです)


というふうに書き出したとおり、いろいろあるのですが、ハシにもボーにもかからない人間ではありたくない、ということですね。

「気になる存在」になるのであれば、どうしてもというのであれば悪い方面で気になるのも仕方がないかな、と。あまり気乗りはしませんが、


ところが最近は、そういう個人プレーではなくて、私含めて気になる「家」でありたいな、と、考えます。
「家」とは「家族」とほぼイコールではあるのですが、たとえばホントに「家」というハードも含めて。

たとえば私は一生賃貸暮らしをして、「別宅」は購入するつもりでいるのですが、そういうことも含めて「気になる家」の一要素となっていきます。

自分と家との評価を連動させるというのであれば、家族単位で自分の意志を伝達させておかなければなりません。
ですから、独りよがりの思いだけではダメなのですね。たまには家族を説得したり、あるいは家族の意思を尊重したり、を繰り返して「家」の。。(ここでコトバが詰まりました)存在? 雰囲気? 個性? を作り上げていかねばなりません。

ここにも少し「滅私」(私の生活の基本スタンス)は入ってきています。コトバ悪くいえば「自分のことはとりあえずどーでもいい」と。。
そういう境地に達してはいませんがそれに近づいてきているのは事実です。

再録

左脳で評論しながら食べることに反論する人がいます。

「感性で食べればよい」「おいしいか、おいしくないか」でいいではないか、といった意見です。
が、反論している人も左脳で食べているはずです。
そもそも反論を起こそうとするタイプの人であることからして左脳ではないでしょうか。
本来、右脳で鑑賞すべきであろう、絵であるとか、音楽であるとか、そういう分野には必ず「評論」があります。
彼らは、我々一般人が「何となくよい」「何となくきらい」までしか判断できない作品の「なぜ」を代弁してくれることが多々あります。
誰も彼もが「感性」で鑑賞し「何となくよい」「何となくきらい」の評価で終わっていたら、芸術は後世まで残っていないのです。
我々がボキャブラリーを蓄積している意味というのは、本来言葉にならなかったものを言葉に翻訳して伝えるためにあると思います。

食べる話に戻すと、うんちくを垂れ流しながら食事をする人と一緒になってしまったら確かに災難ですが、食事において少々のうんちくはスパイスになります。たとえば特別なシチュエーションでの食事の場合は、単においしい、おいしくないだけでなく、その店の歴史、その食材について、などの情報は食事をいっそう引き立たせます。また、その店で食事をするに至るまで、そこを予約するまでの簡単なストーリーがあるとよいですね。