元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

コドモのときの生活を忘れられない(反面教師)

本来の日記部分

  • 体調

眠。。

  • 仕事

今の現場が今年で終了なので、引継ぎなどなど、コキ使われています。。
「もういなくなるんだからどんどん働かせろ」という圧力がかかっている。

こうありたいまたは反面教師

  • コドモのときの生活を忘れられない(反面教師)

「旧庶民」が陥りやすいワナとして、人生における実現目標を「不当に」高く設定するといいますか。

今まではずっと、「旧庶民」は、マスコミの洗脳によって、一律(「大衆向け」)の目標を設定「させられている」と考えてきたのですが。。

最近、それだけではなくて、コドモのときの生活をリセットできないのも問題ではないか、と考えるようになってきました。


たとえば自分は、ハンパな地方都市のさらにその周辺に育ったがために、自宅の土地はムダに広く、家も無用に広く、車も父親の仕事車と、母親の買物車と、2台ありましたが。。(車は生きてゆくためにゼッタイに必要です)
現在、それをまったくひきずっていません。そしてこれからも引きずることはないと思います。
土地も家もやたら広い必要はないですし、車も、生活必需品でなければ無用です。

これは、「そんなイナカが嫌で飛び出してきた」から、というのが多大に影響しているのでしょう。


ですが、引きずってるヒトは案外多いのだな、ということに最近気付きました。
実家が一軒家で育ったヒトが、マンション暮らしに我慢できない。それで、郊外に家を建ててムリして都心に通勤する、とか。
あるいは、クルマを持たないとステイタスを感じられないから、週末、しかもちょっとしか乗らないのにクルマを買って、徒歩20分のところに駐車場を借りる、とか。
そして莫大な(そのヒトの給料から考えると)維持費を払い続ける。。

これは、一概に批判したいのではありません。確かに私は、生活の基盤や土地が違うのに生活スタイル(これは、「水準」とはちがう)を引きずる必要はまったくないと思っていますが、生活スタイルを自分の育った環境に合わせたい、という希望はそれはそれでいいと思います。

ただしそれで、ホントウにそのヒトが満足なのであれば、です。
考えに考えた末にそういう結論に達したのであれば。


ただし、ラクしてませんか? とは問いたい。単に実家のスタイルを踏襲してそれを自分のライフスタイルにするのは、楽でしょう。そこには妥協のニオイもちらほらと、します。

まァそれはよいのですが、もっとも問題なのは。。そういうヒトは頑なに、育った環境の生活は引きずるのが当たり前である、と信じている、あるいは自分に言い聞かせているという事実です。

つまり、排他的なのです。私のように、育った環境の生活スタイルから脱皮しようとしている人間に対して寛容でない。そこには、自分が「抜け出せない」ことからくる嫉妬羨望を若干、感じますけども。。

ただ、放っておいてくれればいいのです。


そういえば、そういうヒトたちが規定する、コドモの頃からひきずるライフスタイルこそ、戦後経済成長期の日本に典型的な、画一的なものであったような気もしますね。
それはもう「過去形」なのですが。。