旧町名 社会主義「革命」? 熱狂的布教
本来の日記部分
- 体調
風邪については本調子ではないまでも、回復傾向。ムカシのゴーマニズム宣言に書かれていましたが、37度ぐらいまで熱がひいてきたら、もう活動をはじめたほうがいいようです。(私は)
咳が残る。
ミチクサ(散歩、都市論etc)
- 東京の旧町名
たとえば町内会の境界線だとか、旧町名の残勢力がこれだけ残っているにもかかわらず、また、新町名になってこれだけ時間が経過しているのにまだその「味気なさ」に不満を持っている人間がかなりの数残存しているにもかかわらず、一向に復活してこないのは。。
実は旧町名に戻すべき、という勢力のほうがマイノリティーなのでしょうね。
結局やれることといったら、千代田区猿楽町、三崎町をそれぞれ神田猿楽町、神田三崎町に変えるぐらいで。。
「もう、こうなってしまっているんだからこのままでいーじゃん」と。表面上の住所表記と町内会のテリトリーが分かれていたところで、自身の生活に致命的な影響があるわけでもないですから。。
ですが、日本橋の上にかかってる首都高を移設しよう、なんていうスゴい計画が実行に移されようとしているわけですから、それを考えると、JP発足と同時に旧町名に戻してしまえばよかったのに。。なんていう妄想をしてしまいます。
素人はいくらでも外野でいえますから。
ムカシは、郵便を配達するのが面倒だから、とか、そういう実務的な事情があったのでしょうが、今は戻しても大丈夫でしょう。「テクノロジー」が発達しているわけですから。
「テクノロジー」はそういう、町の由来がわかりやすい旧町名に戻すとか、文化的に豊かな状態に戻すために活用されるべきです。「戻す」ためにテクノロジーを使うというのが、オモシロいといいますか。「進化しないと退化できない」とでもいいましょうか。
それをナンチャッテ禅的に突き詰めれば「進化は退化である」ということになりましょう。
人生観、のような、思想の話
- 社会主義革命! って。。
必ずしも帝政ロシアが豊かではなかったのに社会主義革命が勃発した、というのがそもそも本末転倒だったわけで。。
その革命とは、「一発逆転」を狙ったわけですよね。
でも本来の意味での社会主義への移行というのは、そもそも「逆転」という考え方すらないわけで。。
豊かな資本主義社会は自然、社会主義に移行する、というのがそもそも論だったわけです。
「革命」ではないのですね。革命ではないということは、「無血」であるはずなのです。「革命」というかたちをとることを想定していないというか。。
で、何が書きたかったのかというと、その、暴力革命によって実現される社会主義と、本来の理想論としての社会主義実現(無血による)の対比は、貧乏人が宗教に「すがる」構図と、衣食住および精神が満たされた人間が自然に、「よりよく生きる」ために宗教を利用する構図との対比に、似ているなあ、ということ。
と、いうことは、次のステージへの移行という意味での宗教というのは、理想論でおわってしまうのか。。
死、あるいは宗教に近い話
- 熱狂的布教
新興宗教の熱心な折伏は不快ですが、逆に聞きたいのは、今の新興宗教は熱狂的に、自己犠牲の精神でもって布教をしているのか? ということです。
すべてはカネのためではないですか? 布教の目的は、カネは関係ないと断言できますか?と。
結局ねずみ講と何が違うのでしょうか?と。
「カネのためです」ということを認めた時点で、宗教法人は営利団体でしょう?
でも、平安や鎌倉の世では、実は坊さんはお布施のために布教をしていたわけです。そういう歴史がある。ムカシの宗教は、ごくふつうの「経済活動」だったのです。
でもそれは、その当時の坊さんの講釈が、おカネを払う価値があったからでしょう。今のカウンセリングと同じような。。
つまり、当時は「宗教!」と、大上段に構えていなかったのでしょうね。今みたいに。
あれ、ハナシが変わってきたな。。
明治ぐらいに興ってきた新興宗教というのは、元来、ただただその教えを信じて布教したい、という思いだけで広まっていった、「熱狂的な」活動だったのではないか? と。
その頃までは、既存仏教のほうが経済的であったと。
それがいつからか、逆転して、新興宗教はロコツにカネ集めに走るようになった、と。
「熱狂」の向き先が、そっちのほうにいってしまったのですね。
これが資本主義の「罪」のひとつの典型的なパターンなのでしょう。