元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

スーツケース セレブ

本来の日記部分

  • 体調

痛飲、頭痛というお決まりのパターン。。




こうありたいまたは反面教師

  • 街でよく見かけるようになった、デッカいスーツケース

あの、ネコも杓子もスーツケースをガラガラと引いて歩く流行というのは、現代において象徴的ではあります。。

大きい容量のカバンがあるからといって、あれやこれやとパンパンになるまで詰め込んでしまって、あまりの重さに移動が不愉快になる。。スーツケースで引けるからといって、荷物が重いのに変わりはないのですから。


荷物を取捨選択するというインテリジェンスがなくなっているわけです。
ウェア含めた自分を、どんどん重くして(「デブにして」と言い換えたほうがいいかもしれない)、自分で自分のクビを絞めているわけです。

身軽がいちばんである、というのも、よく考えればあたりまえのことです。。 なのに、世の中ではたくさんの荷物を詰め込める重いスーツケースが流行る。。 逆コースですね。
といっても、スーツケース片手に放浪の生活をする覚悟があるわけでもない。。

。。もしかして、スーツケースを持つことによる「旅行気分」? 旅行気分を味わいたいがために、日常でスーツケース運びますか? しかし。もしそうだとしたら不思議な世の中ですよね。。 それは一種のコスプレでしょうね。

  • 食器のセット

たとえばコーヒーカップセットとか。。
そのセットをいくつ保有しているか、が幸福の尺度ではありません。ホントウに好きなものが1セットとそのバックアップがあれば、それで十分なのです。その1セットを大切に使うのです。それが豊かな生き方です。

自分は田舎に育ったのですが、トモダチの家に行くと、やたら重厚そうな食器棚に、いくつもいくつもカップセットがあったりしました。。 あれはもう、実用ではありませんね。装飾品でした。
そしてその食器棚はおそろしいほどの広さで居間のスペースを占領していました。


コーヒーカップの例を続ければ、気分によって使い分けるライフスタイルが豊かである、という意見もあるでしょう。でもそれはもう、古いのではないですか?つまりそれはトレンドにすぎなかったということです。

「そんなにたくさん持ってどうするの」という正論が世の中で巻き返してきていませんか?
ムダなモノを持つ、持ってただ飾るだけ、というのは「エコ」の極北ではないですか? お気に入りをボロボロになるまで使うのが「エコ」でしょう?

環境論者がそういう生活をしているのか、非常に怪しい。環境論者の「上層部」はゼッタイに「エコ」の極北の生活をしているに違いない、という偏見を持っています。見たことはありませんが。。確信に近いものがあります。

自分について

  • セレブ!

自分がセレブリティに対して好感を持つ理由は、争いを好まないからです。
ここでいう「セレブリティ」には「真の」という条件をつけなければならないところがカナしいですが。。これだけニセモノが街にあふれてしまうと。。

真のセレブリティであれば別に自分がそうであることを誇ったり、どれぐらいのレベルであるかを数値などで競ったりする必要もない。だから、そこには争いはないのです。

突き抜けている。それはきわめて仏教的であるといえます。


ですからもっとも警戒している(争いを好む)のは成金ですね。何とかして自分の優位性を保とうとしますし、それはみていてとても醜い。
自ら、絶対評価ではなく相対評価を課していますから、「他人よりも」「あの家よりも!」というのがまずきてしまうんですね。

意識してセレブリティを模している時点で、もう違うんですよね。

だから、違うアプローチで突き抜けないと。