元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

ヒトにはヒトの時間がある 川口浩探検隊

本来の日記部分

自転車で、片側3車線のやや広めの道路の車道を、クルマと並走して快適に走っているときに、逆走してくる自転車がいるんですよ。。
あれは、コワすぎです。自転車だからといって許される行為ではないと思います。

自転車で車道を爆走しているときに、ヒヤっとするのは、そういう逆走する自転車と、あとはムリに横断しようとする歩行者。つまり、人間ばかりです。

私は、車道を走るときは車道のマナーで走ろう、といちおう気をつかっています。

人生観、のような、思想の話

  • ヒトにはヒトの時間がある

ヒトというのは、皆タイプが違います。
なんてことは言われなくともわかっている、ということなんでしょうが、「庶民の総体」は、日本人は皆同じ、ぐらいに思っていませんか? なんだか最近そんな気がしてならないのです。

つまり、皆が皆、マスコミに洗脳されていることに、意識下では自覚があって、他人もそうに違いない、と考えている。。
皆が同じ生活様式を、「している」とはいわないまでも、「望んでいる」と考えていませんか?

そう「考えたい」ということ。「仲間でしょ?」と引きずりこみたいという。。


ヒトは、それぞれ何を「望むか」まで、ぜんぜん違います。 
誰もが成金ライクな、白亜の豪邸にメルセデスベンツ、みたいな生活を最終目標にしているわけではありません。「ブラスト公論」の帯でも「誰もが豪邸に住みたがっているわけじゃない」と言っていますし。。

そして、間違いやすいのは、誰もが「それなりの幸せ」を求めているわけでもないんですよ。そんなに、一様ではありません。

マスコミが作り上げる中流のイメージがあって、それは、時代とともに移り変わっていますが、誰もが誰もそれに追随しているわけではないのに、皆が皆そのイメージにたどりつきたいと「考えているに違いない」、と。。
確かにマスコミに洗脳されてればそう思うでしょうが。。

そんな、一筋縄ではいきません。


それぞれがなりたい、自身の将来像やイメージだって、まったく違う。
卑小な話をすれば、生活時間帯だって、違うわけです。
と、いうことは、それぞれが今、生活の中で何に力点をおいているか、も、もちろんまったく違う。

仮に皆が同じ水準の生活(金銭的な面で)をしたとしても、十人十色で生活リズム、趣味、などなどは変わってゆきます。

冷静に考えればそんなことはアタリマエであって。。


あなたの努力のツボと他人のそれとは、違いますし、強引に同じと考えないでいただきたい、と思うわけです。引きずりこまれるのもイヤですし。。

私は、巻き込むのもイヤですね。最近、巻き込むと、依存的になって「責任とれ」みたいなふんぞり返り方をするヒトが増えましたからね。
能動的に飛び込もうが、巻き込まれようが、最後に判断をしたのは自分なんですよ。

軽く巻き込んだつもりが、「強引に勧誘された」ぐらいのことを他人に吹聴されちゃいますからね、昨今は。


だから、不特定多数の他人とはかかわりたくないのです。馬鹿らしいと思う瞬間が、イヤでも増えますから。。
「不特定多数」とかかわりたくないだけで、人間関係を遮断したいわけではないのです。

「もっと世間をみて。。」と私にお説教をタレたいヒトもいるようですが、そういうヒトよりは私の意識はよっぽど外には向かっています。


つまり、結局何がいいたいのかというと、他人に対して安易なカテゴライズをするな、ということでしょうかね。。
「他人もそうに違いない」という。。
ものすごく失礼な行為です。

「他人もそうに違いない」というのは、何か逃げるときの言い訳に使いますよね。




再録

  • 20070616メルマガ

ムカシのテレビのスペシャル番組の名物で「川口浩探検隊」というのがありました。
「アマゾンの奥地に探検隊初潜入!」のはずなのに、カメラが先に入っている、おかしいじゃないか、というのが、子供の頃の自分たちのお約束のネタとしてありました。

我々は、子供の頃から「ヤラセ」を楽しむ余裕があったのです。

それと、コドモの頃からプロレスを見る「眼」(一部では「アングル」ともいいます)を養っていてホントによかったと思っています。この「アングル」が現在の自分の生活においてとても役立っています。

プロレスが八百長なのであればなぜ彼らは首の骨を負ったり脳に損傷を起こしたり、生命を削ってまでそこに賭けるのか、説明がつかないのです。

たとえばミュージカル、演劇、ショーの類であれば、それらはフィクションであるにも関わらず、演じている俳優さんたちは、お客さんを楽しませようと極限まで努力をします。

ショーは、結末は決まっていますし、その結末をほとんどの観客は共有済ですが、それに対して「八百長」であるとはいいません。

プロレスは「スポーツ」ではありません。連続性のある壮大な、「閉じたドラマ」です。
(再録おわり)