ヘンな雨 「もっと汚れなさいよ」
本来の日記部分
私の周りでは誰も話題にしていませんでしたので、今年の夏の断続的なにわか雨について、書き残しておきたいと思います。
今年の夏は猛暑とばかりいわれていましたが、自分はそれよりも、ヘンな断続的なにわか雨がとても気になっていました。
(東京の猛暑といえば、今年よりも2004年のほうが印象深いです)
自分の記憶では、こういう雨の降り方は過去にありませんでした。
にわか雨とか「降ったりやんだり」というのは、よくあることです。ですが今年の「降ったりやんだり」は、力いっぱい降ってぴたっと止む、の繰り返しというのが多かったです。なんというか、シャワーの栓を閉じたり、開いたり、みたいに、ぴたっぴたっと降ったり止んだりするんですよね。
そういえば、夕立ってほとんどありませんでしたよね。夕立があれば夜、涼しくなるのですが。。
夕立の代わりに、早朝に雷が鳴って雨が降ったりして。。朝の雷は不気味だし、単にウルサい。
朝の雷もそうなのですが、雨も、降る時間にゆるやかに規則性があったような気もします。常に夕方に降るのではなくてそれが分散されていたような。
気が向いたら検索して調べてみましょう。
死、あるいは宗教に近い話
- 電波系?
そもそも、仏教とか、思想とか、そういう類のハナシをしたり、日記に書いたりするだけで「電波系」にされてしまったりするわけですから。
あるいは「オウム」や新興シューキョウの類にカテゴライズされてしまったり。
そういう意味では、この状況は末期的です。
日本人が宗教を意識せずに暮らしていることの良し悪しのうちの悪い部分が出すぎている。
宗教を意識しないということは、「自分とは何か?」とか死生観や世界観について考えずに、生きてゆけてしまえる、ということです。
諸外国のうちの多くは、宗教教育、というカタクルシい考え方を意識せずとも、宗教が生活の中に溶け込んでいるといわれます。
と、いうことは、宗教というのは必然的に、個々人の「思想」に踏み込んでくるものなのです。つまり、個々人は、庶民であれそうでなくとも、「思想」せざるを得ない。
その訓練というのは(コドモの頃からの)あらためて、大事なんだろうなあ、と思います。
今、若い世代で、将来についてビジョンを描けない、自身の将来すら語れないというのは、先進国では日本は最低レベルでしょう。
(先進国でない場合は、生活が苦しいがゆえに将来を考えることができない、ということがあるでしょうから、先進国に限定しますが)
その大きな理由は、おそらく、日本人がとことん宗教アレルギーになってしまったからなのでしょうね。
せめて比較宗教学ぐらいは取り入れてほしいものです。
こうありたいまたは反面教師
- もっと汚れなさいよ
少し前にフジテレビプロデューサーのブログに書かれていた、元安倍内閣をやや擁護する意見が未だに気になっていて。。
どういうハナシかというと、安倍総理辞任の際、街頭インタビューで「もうちょっと経験を積んでからのほうがよかったのではないか」という意見があったそうです。
でも、政治の世界で「経験を積む」というのは、「汚れる」ということだろう? と、このプロデューサーの方は書いていました。
(もっといろいろ書かれていましたが、要約するとこんなところです)
この意見はすごく、引っかかりました。賛成、反対の域を超えて。
自分にどう引っかかったか、というと。。
この「汚れる」というところが共通点だと思うのですが、街頭インタビューのこのヒトは、安倍元総理に対して「もっと汚れなさいよ」とダメ出ししているわけですよね。
私とは全くレベルが違うハナシなのですが、私はここ10年以上、何度も何度も、「もっと世の中を気にしなさい」的なことを言われてきたわけです。
それは、もしかしたら、安倍元総理に対する庶民の意見である「汚れなさいよ」とほとんど同じなのではないか、と。
「世の中を気にする」とは、テレビを見たり日経を読んだりすることです。(おそらく)
私はそれを「汚れる」ことだと確信している。10何年前から。
そこに絶対的な信念があるわけではないけど、なぜ、自分はそういう結論に至ったのだろう? というのは、自分のことながら興味はありますね。
ちなみに手前味噌ながら、自分は、この現実世界ではきわめて「人畜無害」な人間です。そうであるがゆえに、この日記に書き出す内容は、その反対にならざるを得ないのでしょう。バランスという意味で。
でも、この事実ですらも「典型的」ですよね。
元来、非常に「典型的」であったはずの自分なのですが、「世の中を気にする」ことを拒否し続けているのはどうやら「典型的」ではないらしい。
しかも、もともといろんなことが長続きしないはずの自分が、それについてはずっと、ある程度の信念を貫き通しているようにみえます。
自分について
- 日記
日記をインターネットに公開すること(自己顕示のために公開するな、という意見)に対する明確な反論は、あります。
まず、このご時世で紙の日記をつけますか? 特に私は、ブラインドである程度打てますので、字を書くのは最近わずらわしいです。思考のうつり変わりのスピードに、キータイプでなければついてゆけない。
それと、もともと、極々身近なヒトたちには見てもらおうと考えて始めたものなのですが、今の時代、数名に公開するにしてもインターネットを利用するのは当然ですよね。
インターネットに公開すれば、「たまたま」、「通りすがり」のヒトたちがみることはあるわけですが、それを「ネラってるんじゃないの?」という意見に対しては、「そうですね」と答えます。
でも、私から「そうですね」という回答を引き出して、どうしようというのでしょう。「通りすがり」のヒトに自分のハナシを(遠慮がちに)聞いてもらうことが何か悪いのだろうか。
それよりも、穿った見方をしてそういう質問をしてくるヒトのほうが、少なくとも自分よりはカッコ悪いだろう、とは思いますね。
そういうヒトも、あきらかに自分よりもギラギラと「狙って」ブログなりなんなりを公開してるわけですからね。
再録・継続
- 威圧感、など(会社シリーズ)(20070222)
ビジネス・シーンにおいては、たとえば交渉の席でハッタリをかませる、とか冷静にケンカできるとか、部下や下請けに対して威圧できるとか怒鳴れるとか、そういう力量も絶対的に必要になってきます。なぜならば、平和になったこの世の中でこれらは慢性的に不足している「スキル」だからです。
サラリーマンも金にこじれたら結局ヤ●ザと同じかよ、と思ってしまいますが。。こういうふうな非紳士的な解決が必要になってくる理由は、ビジネス・シーンにおいては誰もが自分、そして自社の利益のことしか考えていないからです。優しい人、正直者はどんどんバカをみるような仕組みが確立されています。
そもそもそんな「シーン」でよいのか? という話になってくるとそれは単なる理想論ですが。。
単に、そんなような各自がエゴをむき出しにしている「シーン」に身をおいていると、自分も性格が悪くなってゆきそうでイヤだなあと、それだけなんですけどね。「それでお金をもらってるんだ」というのも正論ではありますが。
多重人格を自覚できればいいのですが。。 仕事は仕事、と、「顔」を分けられれば。でも、キツい仕事続けて仕事でどんどん性格悪くなってきた人は、間違いなくプライベートにも性格の悪さが侵食していくと思います。そもそも仕事上で性格の悪さを見せ付けている人は、その「風評」はリカバリ不可能でしょう。「ホントはいい人なんだ」と言われるためにはそういう風評の仕掛けもしていかなければならず、面倒です。
会社組織に対しては、自己実現を「させてくれた」、大きな仕事を「させてくれた」という感謝ではなくて、「仕事のせいで体調を壊した」「性格が悪くなった」という「うらみつらみ」を前面に押し出してもいいと思いますね。給料をもらえるからといって病気にさせられる筋合いはないでしょう。
それを、世の中の大部分の会社は未だにわかっておらず、下請けをコキ使うのと同じように、自分の会社の社員を「財産」と思わずコキ使おうとします。そして、安い給料でコキ使われている自覚がない人たちが従順な社員として残ります。そういう会社はいい仕事はしていないはずなのです。
ただし、そういう風潮のようなものは、入社してみないとわかりませんからね。。