元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

インテリと「思想」3 「そんなこといっても。。ねぇ?」 脳に栄養

本来の日記部分

おいしい店を、情報をたどって探していたように、こんどは「面白い本」を貪欲に探そうじゃありませんか。幸い、自分にはAmazonもあるんだし。
しかも、図書館にあれば、タダですよ。グルメはそれなりにお金がかかります。。

本は、ほとんどが脳の良き栄養になるのでしょうが、グルメは、おいしいものというのは、ほとんどが、身体には良くないのです。良くないというよりも「過剰」「過多」なのですね。

  • 体調

なんだか最近、タバコの煙に対して、不快、不愉快を通り越して、その煙によって体調が悪くなるような感じがあります。

路上の喫煙者って、吸殻をポイ捨てしなければそれでいいだろう、って、思いはじめていますね。
それで免責されるはずはないのです。

そもそも火のついた物体を手に持って歩き、有害な煙をまきちらしている時点で犯罪行為ではないのでしょうか?
警察も、警察官に喫煙者がすごく多いから踏み込めないのでしょうが。。

これほどの健康ブームなのに。。 タバコを吸いながらダイエットしているヒトもたくさんいるのでしょうね。


ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • 脳に栄養

身体だけでなく、脳にも栄養が必要なのです。
脳の運動とは、「フィールド・ワーク」のことを指します。脳の栄養とは、本であることは自明です。
運動をやらずに脳に栄養ばっかりためこんでいると、デブになります。つまり、肥大化ですね。

脳への栄養は、コドモの頃は、身体とのバランス良く、つまり、身体の栄養に気を遣うのと同じぐらい脳への栄養も気を遣うべきですが、オトナになったら、脳重視になる必要があります。身体的なアスリートのように脳に負荷をかけていいのは、ある程度歳をとってからです。
ここでもバランス良く、つまり、ある程度「過剰」ともいえるぐらいに栄養を注ぎ込み、同じカロリー分運動する、と。

これを意識するだけで人生、豊かになってきます。

人生観、のような、思想の話

  • インテリと「思想」3

司馬遼太郎の説を援用すれば、庶民はそもそも思想しない、とのこと。地に足をつけた生活をし、「思想したって食えないじゃん」と言える存在、と規定しているようです。

ですが、果たしてそうでしょうか?
一億総中流となり、中流(イコール「庶民」)がかつてないほどまでに肥大化した「知識」(「教養」ではない)を持った現在には適用できない考え方ではないでしょうか。

まず、「地に足をつけた生活」をしている人間が、いない。私の考える「地に足をつけた」は、市井の生活で疑いを持っていない、ということです。
「知識」が疑いをつくりあげる。自分は「市井」でいいのか? と。自分は「庶民」を超えた存在なのではないか?という「買いかぶり」を始めるのです。

ところが、「知識」が「教養」に変換されると、そういった肥大化した自意識も引っこむようで、そこが不思議なところです。


「思想」せずとも疑いなく生きてゆける層、というのは功罪あります。以前私がよく使っていた「身の程を知る」ということです。でも今は誰もが「身の程」を知りたくないという思いがあるのでしょう。


結局昨日(?)書いたことと一緒の、堂々巡りになってきますが。。
そもそも知識がなければ、地に足のついた生活ができる。それがかつての庶民の定義。つまり、かつての庶民は「知識」をもたない存在である、と言われていた。
そして、かつては「知識」はほぼイコールで「教養」に昇華していったが、今は、「知識」どまりのヒトがゼッタイ多数である。
現代社会は、高等教育と「テレビという名の怪物」により、知識はデフォルトとしてついてくる。だが知識が「情報」としてとめどなく流入してくるおかげで、それを「教養」に昇華できない。
今の現代社会で、知識を教養に昇華させるためには、「思想」の素養が必要。そして、思想「する」というやや苦しい行為が必要。「自分で咀嚼し、モノにする」ということ。
この「思想」に対しては、結果的に、大量の情報の洪水を流しているマスコミ(マスコミは、「お上」と結託している)が、庶民が思想することに対してNoを突きつけている。「バカのままでいよ」と。
現代社会においては、マスコミから得る知識だけでは「バカのまま」である。これは、矛盾している。「ふつうにおいしい」飲食店が良い評価ではないのごとく。
知識が教養に昇華せず残存すると、発酵し(つまり、腐る)、自意識が肥大化してゆく。
自意識が肥大化してゆくと、自分は庶民ではないと思い始める。

今の日本人がとどまってしまっているのは、ここです。
まず、知識があるイコール教養がある、と自己評価しているということ。ここが悲劇の発端。
知識がある、だけでは全く「選民」ではないのですが。。情報の洪水には、今の世界に生きるヒトたちの「選民意識」にスイッチを入れる「麻薬」がところどころ忍ばせてあります。(【重要】マーク)

選民意識にかられている状態は、ぬるま湯の地獄でしょうね。
そして、この状態で、「思想するとその状態から抜けられますよ」とアドバイスを受けたところで聞く耳もたない。
選民意識にかられながら、流行から逃れることすらできない。つまり、ココロの中では「選民」のはずなのに、やることは横並び。突き抜けることができない。突き抜ける術すら知らない。


結論としては、自身に対して「このままでいいのか、よくないのか」の最終決断を迫るべきでしょうね。
それは相当な苦痛を伴う行為ですが。。


もともとは相当楽観的でいたのですが。。つまり、知識を持てば、それを教養に変換したいと衝動が必ず起こるはず、と。そしてヒトは、教養に変換する手段を模索する中で必ず「思想」にいきつくはずだ、と。そして思想の先(あるいは「横超」?)には宗教(「新興シューキョウ」ではない)が見えてくる、と。

でも最近は、自意識が肥大すると、知識を教養に変換したくなるという衝動は消滅するのだなあ、と、周りを見ていて再認識する次第であります。
哀れな感じがしますが、まさかそういうヒトって、ヒトの話を聞かないクセにヒトに思想的援助を求めているんじゃないでしょうね。もしそういう考えを持っているのであれば、そういう図々しい考えも、肥大化した自意識から発生するのでしょう。

  • 「そんなこといっても。。ねぇ?」

「そんなこといっても。。ねぇ?」というのは、女性がよく使うコトバで、つまり。。
「人間なんて、結局欲望には弱いモノナノヨ」でハナシを収束させたいときの決め台詞です。

正論に対抗するときの強力なコトバです。例えば、「なぜバカ高いブランド物を買うのか?」という正論に対して使われますね。
「それが正論だっていうのは自分だってバカじゃないんだから重々知ってますよ、でもね。。」と。

男性ももちろん応用して使いますが。


現代人が払拭しなければならないのは、ここのポイントでしょうね。
欲望というのがゼッタイだと思っている、という。。
そして、現代人の欲望が普遍的であるに違いない、という逃げの思い込みがあります。

それは、ここ2、30年の日本で特異的に出てきたモノにすぎません。


別な思いでもって以前、「正論が通じない世の中」について書きましたが、「ブランド物を買い漁る日本人」の図式が収束しないうちは、日本は「正論が通じない世の中」であるといってよいでしょう。
「欲望優先」が許容されている。互いが互いを、なあなあで許容している。オトナがそんなことやってるうちは、コドモもダメでしょうね。

そして、「正論が通じない世の中」というのは、異常なのです。私にとっては、とても「不気味」です。隠遁したい衝動にかられるような世の中です。(やりませんが)




再録・継続

うわっつらだけの付き合いに過剰な時間を取られているヒト、カワイソウですね。

私が書く「カワイソウ」の意味はただ「哀れ」なだけであって、「なんとかしてあげたい」とは思いません。
「哀れ」というのは若干の卑下を含みます。ゼッタイ的になんとかならない状況のヒトに対して卑下したりしません。自分の意志でなんとでもなるのに他の意志に常に流されてゆき、それを他人なり周りのせいにするのが「哀れ」。