「やればできる」? 山本七平、岸田秀
本来の日記部分
- 体調
指先の痛みについては、ばい菌が入ってしまっているのかもしれず、これから膿んでくるのかもしれません。
- 仕事
明日より新しい現場です。しばらく家でぷらぷらしていたので感無量。(ホントは、いわゆる「副業」に集中していたりして、総じてぷらぷらしていたわけでもないのですが、傍目にはそうみえていたことでしょう)
毎回、新しい現場では頑張ろう、とココロに誓うのですが。。
「現場」というのいはそうもいかない。
人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師
- 「やればできる」?
「やればできる」というのはウラを返すと相当なキケン思想だと思いますね。
「やればできる」と思い込んで何もやらないヒトがいかに多いことか。
ほとんどの人間は「やればできる」のであって、重要なのは「やり始める」ことです。
なぜやり始めないかといえば、実際、モノゴトをやり始めると停滞したり、失敗することが多いわけですから、それにより自分のプライドが傷つけられるのがコワいわけです。
そもそも「勇気」がないんですよ。
だから、対外的に「アイツはやればできるのに」という評価にとどめておいたほうが、都合がいいのです。
「思い立ったが吉日」という格言(?)は、確かに間違ってはいません。ですが、ただ闇雲に走り始めると失敗します。
「アイツはやればできるのに」という評価から「やり始める」ことにより一歩を踏み出し、さらに対外的にインテリジェンスを感じさせられるかどうかは、最初の勢いにプラスして「計画」というエッセンスを盛り込めるかどうかにかかっています。
「やればできる」から一歩も動き出せないヒトは、まずは、動かなくともかまわないので、計画を練ったらどうでしょうか。
ぼけーっと動かないのと、ぼけーっとしているように見せかけて実はアタマの中ではいろいろ計画を練っているというのでは全然その後の人生が変わってきます。
「やりはじめる」だけでも「やればできる」から一歩も動き出せないヒトよりはまだマシですが、本当に重要なのは愚直に続けることです。
続けるためにはゼッタイに計画が必要なのです。
自分について
- 最近読んだ本
- 作者: 山本七平
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1997/11
- メディア: 単行本
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- 作者: 三枝充悳,岸田秀
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 1982/09
- メディア: 単行本
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この本によれば、お釈迦様は、自分の国が攻め込まれていたときにそれに対して特になにも考えを表明せず、行動も起こさなかったそうです。
内心どう思っていたかは知る由もないのですが、でもその心情はわかるような気がします。
そのときのお釈迦様の気持ちは、俗っぽくいえば「そんなヒマねーよ」だとは思うのですが。。
それだけではないと思うので、そこに自分のような俗人が考える余地はある。
中村とうよう氏のコラムとともに、自分の血肉となり、常に自分の思考の指針としている(ような気がする)山本七平、岸田秀の軽めの著作をあらためて読んでいます。
学生時代から卒業後、ふらふらしていた時期にかけてよく読んでいました。
なぜ読み返しているかといえば、最近、自分の思考のよりどころとしての「本」すなわち先達のコトバを「自身」が渇望しているように感じているためです。
現在、思考が堂々めぐりしているような気がしてならない。。
それに、よりどころがないがために安直に「違和感」=>「怒り」=>「書き出し」と進んでしまって、必ずしも有益な帰結になっていないように思えます。
「昇華」してないのです。
「思考の堂々めぐり」の結果として、自分の精神の安定のためにもある程度の結論にはいきつきたい、そして、それを簡潔なかたちで書き出したい、と思っているのですが、その結論には自力でたどりつきたいわけです。
かつて、自分が読んだ本や経験など、すでに自分の血肉となっているモノたちを触媒にして、完全に自力で結論に到達できればそれに越したことはないのですが、どうもそれはムズカしいようで。。
「経験」の量はある程度自信をもっていますが、なにせ絶対的に読書量が足りない。。
(それでも平均よりは上だと思ってはいるのですが)
アカの他人に、「アナタの考えは○○と同じだね」とか、したり顔で言われたくはないので、言われてしまう前に「ある程度のところ」にまでは到達しておきたい、と考えるわけです。
ところであらためて、「ブラスト公論」のキーワードのひとつである「自意識の七転八倒」というコトバは、含蓄のあるすばらしいコトバだと思いますね。
私が堂々めぐりしているのはまさにそれです。