元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

美観を損ねる 「自由になれた気がした ●●の朝」

本来の日記部分

  • 体調

咳もおさまってきました。

冬の終わり〜春先にかけて、長期間苦しめられた風邪にくらべると、どうということはないですね。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 美観について(「馬鹿らしい」の話)

世の中の「美観」というものが、仮にほんの一部のきれい好きによって支えられているのであれば、彼らは「馬鹿らしい」といって投げる権利はあるわけですよ。
保っても保っても、知らんぷりしてゴミを捨てるヤツが減らない、とか、全く感謝をされない、とか。。

投げた途端、世の中の美観が損ねられてきたときに、「世間」はその投げたヒトを責められるか? 「自分の仕事を放棄しやがって」と。

「だったら口だけじゃなくて自分がやれよ」、となぜ言われないのか?

もともとそれは、その人の仕事だったのか? そこに、本当に「責任」は発生しているのか?


これは「仮に」の話しであって、美観を保つのが仕事のヒトが、安易にそれを放棄するのであれば問題なのかもしれませんが。。
それが仕事であっても、すぐに辞めたくなる状況を作っているのは「世間」だとは思いますが。。

美観を保てるヒトは、概して「継続」ができるヒトです。
他人が不快に感じるほど散らかして、それを突然ばーっと片付けて、また散らかして。。の繰り返しのヒトは「継続」ができるとはいいません。「保って」はいません。


「キタナい」という状況に対してガマンできるかできないか、という話しで。。
ガマンできないヒトが率先して先に動きます。つまり、キレイにします。
ということは、ガマンできないヒトイコール「清潔好き」なわけで、世の中は常に、清潔好きなヒトが先に動いてしまうようになっているのではないか? と。
「キタナい」状況を作り出した張本人が、先に動かない、ということです。キタナくしておいてさらに、清潔好きなヒトがキレイにしてくれるのを待つ。

これこそが「モラルの崩壊」なのではないですか?

清潔好きなヒトが「馬鹿らしい」と感じるのは、よくわかりますね。
清潔好きなヒトは、そうでない人間が集まるコミュニティに近づかないようになる。当然のことです。


ところで、ヒトを見るときに、掃除の「センス」で、そのヒトが実生活において自分で自分のケツを拭ける(責任をとれる)人材か否かはわかります。

散らかしっぱなしでヘーキなヒトがいますね。カレらは、確実に自らが散らかした結果としての「散らかっている、キタナい」という状況を「散らかっている」と把握できないところがそもそも致命的ですし、自分で自分のケツは拭けないのですから、要注意です。いつかそのヒトが原因の厄難があります。

他人からみたら、自分のケツをギリギリまで(ニオイが発生するぐらいまで)拭かなくてもヘーキな人間、という判断を下されるのです。(そんなヒト、イヤでしょう?)

(あくまでたとえですが)他人から「アンタクサいよ」と言われてはじめて「仕方ねーなー」とプチ逆ギレして拭く、という感じですよね。


そういうヒトたちはえてして自分がキレイ好きだと思っていたりします。そして、他人が散らかした状況に対してはなぜか敏感で、自分のことを棚に上げて文句を言ったりします。(そして、「自分のことを棚に上げて」いる意識がない)

そういうヒトにだけはなりたくないものです。


「明日やれることは明日やろう」というコトバを自分の座右の銘にしているヒトたち。。
確かに、散らかしっぱなしの状況は、今日片付けなくとも、明日でも何とかなるでしょう。死にはしません。
ですが、整理整頓しないことにより、他人に迷惑がかかるのです。
つまり、美観を損ねるということによる不快感を多くの他人に与えるのです。

そういう人材は、世の中にとってマイナスなのではないですか?
頻繁に、多くの他人に不快感を与えているのだとすれば、迷惑な人材ですよね?


それは、他人が指摘するとか教えるとか、注進するとか文句を言うとか、そういう表層的なレベルで解決できるハナシではないでしょう。
「思いやり」をコドモのころから持てていたか、「思いやり」を自己満足より優先していたかどうか、の蓄積ですよ。

思いやりがあれば、多くの他人に不快感を与える生活を送れるわけがないじゃないですか。

「思いやり装置」が鈍感なヒトが最近とても多いのです。アブラを挿していないといいますか、「思いやり装置」のメンテナンスをしてないから、サビついてるんですね。

なぜメンテナンスをしないか、というと、日常生活で必要となる機会が少ないからなのか。。
あるいは、コドモにとってのオモチャ同様、「思いやり装置」を発動させるのに飽きてしまったのか。。

自分について

  • 「自由になれた気がした ●●の朝」

15歳であれば、盗んだバイクで走り出したりおぼえたてのタバコをふかしたりして「夜に逃げ込」めば、自由になれた気がしたのでしょう。

十七歳の地図

十七歳の地図

でも、この歳になるとね、自由を感じられるのは、朝、それも早朝ですよ。
雨の降ってない朝、鳥がチュンチュンと鳴いている中で、ゆったりと散歩をしたり、読書をしたり、こうやってインターネットで日記を書いたり。。
あるいはもっとアクティブに、始発電車で築地にいっておいしいものを食べたり。。

静寂があるんですよ、朝にも。たしかに、「夜に逃げ込」んでも静寂はあったんですが。。

現代社会では、朝、活動しているだけで「個性的」でいられます。
15歳は、夜、活動することが「個性的」だった。

これは、自分にとってはとても重要なサジェスチョンです。