元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「説得力」 静かに暮らしたいのでほっといてほしい

本来の日記部分

痛飲。よくないとは思っているのですが。。
この日記では何度も書いていることですが、なぜ、不快な「外的要因」が「あっち」からどんどんやってくるのか、わからないのです。

これは、おそらく、自分の被害妄想なのだろう、というのもわかってはいるのですが。。

冷静に考えると、けっこう嗜好品に対する意志が強くなってきている自分を痛飲という行為にもってゆく「外的要因」って。。 けっこうすごいな、と思うのですが。

それがなぜしつこく自分のところにやってくるのか。

自分はホントに淡々と、波風を立てずに、静かに日々を暮らしたい、と思っているだけなのですが。。

確かに「静かに」しているということは意志表示は足りないかもしれないけれど。。
そんなにガンガン皆が意志表示する世の中も好きではないですし。。

なぜ静かに暮らせないのかというと、「静かに暮らすのってつまんないっしょ」という余計なおせっかいの介入。その「つまんない」という判断は、すべてテレビを中心にしたマスコミからのもの。

そこに潜むのは、静かに暮らせる人間への嫉妬羨望。
少なくとも私は、外部からは、「超然」と生きているように見えるのでしょう。(意識的に、そうしているというのもありますし)

とにかく、ただただほっといてほしいものです。

  • 体調

痛飲により「頭がだるい」状態。。

  • 仕事

モチベーションほぼゼロ。

再録・継続

  • 「説得力」について
    • 20061230

(略)
糸井新聞の対談で。。

どの分野でも75点までは一生懸命やれば誰でもいけるし、75点まで登った人は、100点を取れる人、残りの25点のすごさについて尊敬することができる、という話でした。

その尊敬の気持ちを持つことは、才能を持っていて100点まで登りつめてしまう人の経験よりももしかしたら尊いのかもしれない、といったような。

言葉に説得力が宿るのは、「75点」までたどりついた人から、ということになりますね。

家でぐうたらしながらテレビを見て、出演者に対して「たいしたことない」「あれなら自分にもできる」みたいなことをのたまってみたところで。。「説得力がない」。

自分がいちばん「たいしたことない」のです。テレビの向こうにいる人は少なくともテレビに出たいという努力は通過しており、その結果として「ブラウン管の向こう側」という、「『たいしたことない』とのたまう人たち」には一生手の届かない側にいるわけです。

小林よしのりさんも、「ゴーマニズム宣言」の中で同じようなことを言っていました。おそらく10年ぐらい前の巻だったと思いますが。。

  • 20070107

努力、一生懸命さ、といったものをスルーしようとする人は永遠に「説得力がない」ままであり、かつ自分が説得力がないことに気付こうとしません。

ですから自分はそういう人たちをさらに「スルー」して、それを反面教師にして自分は「説得力」のある人間になろう、と思っています。

そういった「説得力のない人たち」にご注進して、更正させようという気は微塵もありません。

それはこの日記の根底に流れている私の考え方です。

私には人にご注進している時間はないのです。「申し訳ないのですが」と付け足してもよいです。

自分自身で精一杯だからです。

「説得力のない人たち」はひとつの例ですが、そのように違和感を感じる人たち、あるいは無礼な人たち、集団に対しては「反面教師」として取り入れさせていただくのみです。

違和感を感じたらそのようにはならないよう努力するのみ。わざわざ「おかしいよ」と言いにいくことはしない。

「わかっているのだったらなぜ言ってくれないのか」と甘える不可思議な人たちがいます。

人が意見を言ってくれるよう「門戸」を広げていますか? 言ってもムダだと思われているのではありませんか? 誰かが意見を言ってくれたときに、頭から否定していませんでしたか?

ビジネスにおいては、「改善提案」はお金になるのです。また、たとえば他社の失敗例などは自社の戦略形成のよい参考例になってきます。

わざわざ「おかしいよ」と言いにはいきませんが、「どこがおかしいのでしょうか?」と真摯な姿勢で聞きにきてくれる人に対しては、こちらも誠意をもって対応します。

いや、昔はそう思っていたのですが。。 たとえ姿勢が真摯であっても、間違った既成概念がこびりついている方が多く。。 そういった方は最初から強固な間違った結論を持っていてそれが揺るぐことはないので、最近はそういう方に何を言ってもムダなのかなあ、と考えています。



思い切り脱線しましたね。。

で、自分が「説得力のある」人間になるにはどうしたら? という話にまとめてゆきたいのですが。。

簡潔に結論づけてしまえば「日々努力は続けているのでいつかはなれるだろう」と、楽観的です。

その「努力」が、間違った方向に向いていっていないかを日々監視して、必要に応じて微調整してゆけばよいのではないかと。

そして、専門でない分野について付け焼刃で語るのはやめましょう、ということです。せっかく努力を重ねていても、そういうところからガラスに少しずつ傷がついてゆき、曇ってゆくのです。

(自分で書いていて耳が痛い。。 今年の抱負にしましょう)

別に教養のある人間であると思われる必要はないのです。


ところで、説得力のある人のもとに人は集まるでしょうか。

それは必ずしもyesではないような気がしています。

自分が「説得力」をもちたいのは、それは人に集まってほしいからなのか。。

そんな気がするし、そうでないような気もします。

仮に自分がある程度「説得力」を持った状態になったと仮定して、その状態で集まってきた人たちとは仲間になりたい、と、いうことですかね。


でも、「説得力」とは、その名のとおり説得する力のこと?

ということは。。人を説得しなければならない?

いや、説得力というのは、イメージとしては「一発で」仕留める(説き伏せる)ことができる「経験力」あるいは「オーラ」のようなものでしょうね。

たとえばむちゃくちゃな例をあげれば、サッカーの三浦知良選手がサッカーの練習方法について語ることはすべて説得力がありそうです。彼が「サッカーが上手になるためには、野球の素振りを1日100本しなさい」と真面目な顔で「説得」すれば世の中のサッカー少年はすぐにバットを買うでしょう。

そういうことですね。

何か宗教の洗脳的な話になってゆきそうですが。。 それとは少し違うような気もします。


「説得力」とは、他己があって初めて発生するもの、のようですね。説得力を乞う人たち(需要)がいて、それに対する供給として「説得力」を提供する、といったような。

独りよがりではいけないと思います。

説得力を乞う人たちに対して説得力のある人は自然、マスへの登場がのぞまれます。そのような形でマスに「説得力のある人」が登場してくるのは健全な状態です。が、今はそのような状態にはなっていません。マスに登場するのは望まれる人ではなくて自分で望んで出てくる人ばかりです。

「クリエイティビティ」が必要とされる職種に、素養がない人(単に「なりたい人」)ばかりが集まってくる話と、同じですね。。


(再録おわり)