元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

また偶然 人生のベースとしてあるべきもの オトナになるための儀式

本来の日記部分

今の現場の取引先の、会議でたまに一緒になるヒトが、近所だということがわかりました。
この業界でご近所さんというのは滅多にいないので。。 軽く嬉しかったですね。

  • 仕事

モチベーション低の日々が続きます。

再録・継続

「シンパシーを感じあうことはできる。共感することはできる。でも共闘はできない。そういう意味ではむずかしい時代ですね。孤独な時代だと思う。」
「状況をどう受け入れるか、どう自分を異化させるか、そこでどのような価値観を作っていくか。」

(再録(抜粋)おわり)

1月に日記に載せた、インタビューの中の、さらに短いセンテンスの抜粋なんですが。。

この「でも共闘はできない」、と、いうのは、「一緒に喧々諤々とは働けない」とか「深く付き合えない」みたいに解釈できます。(今の自分には)

このとおりなんですよ。他人とは、「そうだよねえ」と共感しあって、そこで終わりたい、というか。
それ以上深く付き合ってゆく義務はないわけで。恋愛のように、決まりきったステップがあるわけでもないですし。

状況を受け入れて、丸ごと飲み込んで、消化不良を起こすことなく「異化」させて、そこから新しい価値観をつくってゆく、という作業は、まさに今やっていると思うし(この日記をつけはじめてからずっと)、
過去にも、こういう転換点は何度かあったような気がしますね。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 人生のベースとしてあるべきもの

確固たるルールとか、常に定時に行われる何かとか、そういうものこそ、人生の「ベース」としてあるべきだと考えています。
そこから逸脱しようとする動きこそ、そのヒトの「勝手な都合」であり、それが「偽りの柔軟性」であるわけです。

朝のラジオ体操に寝坊して遅れて行って。。「なんでスタートの時間を遅らせないんだ」と逆ギレしますか?

変わらないモノこそ規準になるべきです。朝のラジオ体操はいつも変わらず6:30なのです。


その日その日の気分で、ギリギリになって予定やモノゴトを決めてゆくのは、「勝手」なのです。その「ノリ」で決める姿勢は、単に私がキラいなだけかもしれませんが、巻き込まれるほうはたまったものではありません。
その、決定者や、その人に賛同している近しいヒトだけで完結するハナシならば、それでいいのですが。

他人を巻き込むときは、ある程度の計画性が大事である、ということはアタリマエのことです。
と、つい最近まで思っていたのですが。。 それが必ずしも現代社会においてはアタリマエではないということに気付いてしまいました。。

計画性のない「ノリ」で生きている人間が上司だったり、プライベートであれば幹事だったり、恋人だったりしたら、周りはタイヘンです。

そういうヒトは、あわよくば「カネもなんとかして」といってきます。「自分は決めるヒト あとよろしく」と。

そういうのにウンザリしているのです。
ノリでモノゴトを決めてゆくのは単に「テキトー」なだけで、そこにクリエイティビティなどこれっぽっちも介在しないわけです。

  • オトナになるための儀式

ムカシ。。 就職とか結婚(女性の)という「区切り」は、限りなく続く日常を受け入れる儀式だったんだと思うんですよね。
それが戦後、皆が皆悪あがきをし始めて、だんだん先送りにされている。

もう、想像もできないですが、ムカシムカシの、10代での「元服」ってのは、日常を受け入れるとかいうハナシではなくて、死を受け入れる儀式だったのでしょうか。と、いうイメージがありますが。。
そうであれば、スゴいですよね。。

死を受け入れるというのは、この現代社会では、何歳ぐらいなのだろう?
少なくとも50歳ぐらいまでは「死」というものに向き合っておかないと。。

自分はもう「済」ですけど。。 大病したので。


脱線。その「日常を受け入れる儀式」だったはずの「就職」や「結婚」は完全にスルーされ、いつしか、「出産」というイベントにまで先送りされるようになってきました。(男女とも)

コドモが産まれてから強制的に生活をリセットし、日常を受け入れざるを得なくなる。なぜならば、コドモにお手本を示さないとなりませんからね。
そう考えない親もいますけど。。 そういう親が給食費を払わないのだ、と一言いっておきましょう。

それはいいとして。。

ムカシは結婚年齢も早く、就職年齢も早かった(大卒が少なかった)。
成人式の頃はホントに成人だった、ということでしょう。

ところが今は、庶民は、日常を受け入れることに抵抗を始め、どんどん先送りし、今現在「出産」という防波堤すら危ういことになってきています。
たとえばムカシは生活苦のためにコドモを捨てたり売ったりしたのかもしれませんが、今は日常の受け入れを拒否するためにコドモを捨てるヒトがいる。

逆に問いたいのは、じゃあコドモを捨てて何が残るのか? というところですね。コドモを捨てて、自堕落な偽自由な生活をとる? それはなぜ? 一時の衝動で?? もっと冷静に損得勘定を交えて考えられないか???

などなど、ごくごくノーマルな私の頭の中は、?マークだらけになってゆくわけです。

衝動に流される前にもっともっと、「ビジネス」とまではいかないまでも、損得勘定を入れるべきだと思うのです、オトナなのですから。。