元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「馬鹿らしい」と思う話ふたたびの5

本来の日記部分

  • 体調

やる気が起きず、だらだらしています。
連休明けに、強制的に仕事が再開されるので、そこでリセットする他ありません。

何度も書きますが、せっかくの「休暇」で精神的な休養がとれず、逆に体調を崩す、というサイアクの連休でした。


人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 「馬鹿らしい」と思う話ふたたびの5
    • 「こうなってしまったこと」は「仕方ない」か?

「こうなってしまったことは仕方がない」とその場を収め、事態の収束を図ろうとする動きが最近好きではありません。
なぜなら、その行動自体は間違っていないのですが、そういう場合往々にして、「なぜそうなってしまったのか」を考えないからです。
ほとぼりがさめると、「なぜそうなったのか」をいまさら考えるのは意味がない(「過去をふりかえらず未来を生きよう」的な安易な考え)と、周囲をケムに巻くヒトがいます。そのヒトこそ「そうなった」発生要因なのですが。。 自分が糾弾されないためのファイアウォールを張っておくことに長けている。

こうなってしまうと、状況を悪化させたもん勝ちということになってきます。
世の中、この「状況を悪化させたもん勝ち」という病が蔓延しつつあるような気がするのですが。。

コトバを変えているだけで、この日記ではずっと同じことを書いています。

上記のような「なぜそうなったのか」という一種の「犯人探し」や糾弾を行うシチュエーションが少なくなってきています。これがないと「犯人」は反省しません。
あるいは、現代社会では、それがアンダーグラウンドで潜行することもあります。つまり、「糾弾」を直接的に行うのではなく、「風評」として拡げるということです。

ところで、もっと憂うべきは、「予防」という考え方に対する評価が、昨今全くといっていいほどなくなってきているのではないか、ということです。
「予防」を命綱として、常にいろんな状況で予防線を張って、人生の波風を立てないようにしている自分のような人間にとっては、非常に生きずらい世の中です。
特に最近、生きずらいなあと考えるようになってきました。

予防するということは結果、うまくゆけば何も発生しないわけですから、評価も何もされないわけです。
以前は、何も評価されなくとも別にいいや、と思っていたのですが、最近相当な馬鹿らしさを感じています。
なぜならば、自分が予防線を張ったことにより、自分に波風が立たないだけでなく、大なり小なり、のべ何百人もの人間を、何百回も、助けているからです。
そして、予防線を張らない(張ろうという考えすらない)「状況を悪化させたもん勝ち」なヒトたちの尻拭いを、何度も何度も行ってきました。

正当な行動が正当な評価を受けない、イコール、「生きずらい」という定義でよいと思われます。

かといって「予防したぞ!」と高らかに宣言したところで「だからナンなの」という話です。

仕事でもプライベートでも、先回りして深く考え、将来起こりうる状況を推測し、火を噴かないようにあらかじめ手を打っておく、というのが、もっともインテリジェンスあふれる行動なのです。
私は、それを信じて疑っていません。(【重要】マーク)

もちろん、推測しても、突発的な不具合は発生しますが、不具合が減ることは間違いありません。

馬鹿馬鹿しいと思うのは、問題が発生して、それを力ワザで解決する行為のみが賞賛、評価されることです。
そして、私がもっとも忌み嫌うのは、それをわかっていて、賞賛、評価が欲しいがために「予防」を行わず、意図的に力ワザで解決を図ろうとする人間が存在するということです。そういう人間は、やる気になれば「予防」はできるはずなのですが、しない。