元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

欲求のコントロール 日常への組み込み

本来の日記部分

結局、連休とか年末年始休暇とかが、自分の不快な気持ち、あるいは「怒り」を増殖させるようです。なぜなら、「休暇」なのに休暇させてくれないからです。

確かに、ムカシから連続休暇があまり好きではありません。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

最近「民度」づいていますが、民度を量る尺度としては「欲求をコントロールできるか否か」というのが挙げられます。

あれもほしいこれもほしい、あそこにいきたい、あれをしたいこれをしたい、という欲求に、一生さいなまれたいですか?

それは、果たして、楽しいのだろうか。

私の実体験にもとづくものなので、間違いないですが、マスコミからの情報をシャットアウトすれば、欲求をコントロールできます。


あれもしたいこれもしたいという「何を」は、マスコミに振り回されるもので、流行が収束すればとあるひとつの欲求も収束します。
つまり、流行として旬のうちに行かなければならないのです。
ということは、とある時期に何か(流行っていること)をしたいと強く思っていたとしてもそれは流行というものにコントロールされているにすぎません。

流行が過ぎたら行きたいという欲求も終わり、なようでは。。

そうやって、一生マスコミに振り回されるつもりなのか? と問いたいのです。

果たして、振り回され続けているうちに、自分の内面からわきあがる、流行に左右されない、真の自分の欲求に気付くことができるのか。
これは、ムカシは「できる」と思っていました。「(振り回されて失敗する)経験を積めば、いつかは見つけられる」と。
でもそれは完全に間違いでした。
ヒトは、流行に振り回されたいだけなのです。その経験の中から、マジメに、真の自分の欲求を見つけようなどとはこれっぽっちも考えていないのでした。
ただただ、流れに身をまかせるだけ。それでは、思考に深みは生まれません。

今、世の中はこういうヒトだらけですからね。
こういう世の中にうんざりして、この反動で、厭世的にならず、良い方向に舵を切れるヒトが、すごいと思いますし、自分もそうありたいと今努力しているところなのです。


この話は「自分探し」にリンクしそうだ。。
「自分探し」しているはずなのに自分の思考に深みを与えようとしない。思考が深くなると(ちょっと考えれば)自分がどれほど浅はかで器の小さい人間であるかわかってしまうからです。
そこから常に逃げている。つまり、一生、偽「自分探し」を続けるのです。自分にとって都合の良い結果(白馬に乗った王子様がやってくる、的な)を夢想しながら。。
その前に自分を磨くことが先なのに。。

  • 日常への組み込み

マァこれも以前書いたかもしれませんが。。
イベント性の高い「行事」を、定期的に実現できるのであれば定期的に実行すればいいと思うのですが、定期的に実現してしまうと「イベント性」が薄れてしまい、イベント性を好むヒトからみると「ありがたみがなくなる」という。。
それが自分には理解不能なのです。

非日常を日常に組み込んで何が悪いのか、と。
非日常であろうが日常(定期作業)であろうが、やることは同じ。違うのは気持ちの持ちようだけ。

たとえば、ものすごいおいしいカレーを食べました、と。そのカレー屋さんはちょっと遠いところにあります。しかもちょっと高いです、と。
ですが、ちょっと手を伸ばせば実現可能なのであれば、それを月一とか、あるいはボーナスが入ったら行くとか、定期的に行くようにすればいいのです。
それに対して「行きたいときに衝動的に行くのが楽しい」という考え方があります。そういうヒトに限って、二度と行かなかったりするのです。そもそも移り気ですからね。

日常に組み込もうと思うほどでもないイベントは、その人にとっては大したことではないのです。

定期的にやる、行く、行う、という行動様式自体が、否定されつつあるような気がして、それを自分はとても危惧しています。

「イベント」が、日常に組み込まれた瞬間に、それは味気なく、つまらないものに変化しますか?
しないはずでしょう、やることは同じなのですから。

うーん、今日もうまくまとまらない。。 怒りが前面に出ているときはダメだというのはわかっているのですが。。