元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

日常作業が視界から消える

  • 体調

冬の間ずっと、風邪が長く続くことを危惧していたのがウソのようです。

が、風邪の症状が晴れると、神経が現実の方向に向いてしまって、なんとなく憂鬱な毎日です。
新社会人でもないのに5月病。。

憂鬱な理由は、間接的にではありますがこの日記に書いています。


  • 日常作業が視界から消える

最近、違和感どころか、「危惧」あるいはそれを通り越して「怒り」を感じつつあるのは。。
結局、いつもの話の続きなのかもしれませんが、

他人の、日常の中に組み込まれている作業が、視界から消えてしまう人間が増えているのではないか、ということ。
視界から消えるということはつまり、「価値をなくす」に等しいということです。

たとえをいくつか挙げると。。

ムカシから、成功しているヒトは影の努力をしてきた、という話はよく聞きました。
最近のヒトたちは、成功している人物が、影ではなく表で努力していても、それに全く気付いていないのではないか、ということ。
あるいは、成功者が成功の秘訣を公表しているにも関わらず、その秘訣が「1日数分、●●をすること」といったような日常に組み込まれている作業だと。。 完全無視。
それだけじゃないはずだ、と思うらしいのです。もっとわかりやすい成功要因があるはずだ、と。たとえば、とある場所で劇的な出会いをした、とか。。

他人の日常での努力を読み取れないのは、単なる国語力の低下ではないかと。。


私のように、非日常との対比として、日常に価値を見出す人間にとっては非常に生きずらい世の中です。私の人生の大部分を占める「日常」を生きているときに、他人からは「消えている」とみられるのであれば。
それと、「日常」を楽しめる人間への嫉妬を、ひしひしと感じるんですよね。
「日常だけじゃつまらないでしょ?」と余計なささやきをしてくれる方もいらっしゃいます。そういう方は「マスコミ洗脳完了組」なので相手にもしませんが。。 ウザいのは間違いないです。

それにしても、ヒトがここまで「イベント性」というものに慣れきっているとは思っていませんでした。という意味で「危惧」を感じています。

この話と、「国語算数理科社会ができることをデフォルトにされて正当に評価されない」という話に関連性を見出そうとしているのです。強い相関があるのは間違いないです。

ですので、ひらめきがあればつづく。。 今日は残念ながら、うまくまとまりませんでした。