元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

終わりなき日常性と継続

本来の日記部分

  • 体調

引き続き痰がカラむ。

自分について

  • 終わりなき日常性

宮台真司氏(? でしたか、漢字間違えてたらすみません)の著書に確か「終わりなき日常を生きろ」というのがありました。
この本は読んでないけれど、タイトルから推測するに、僭越ながら自分が考えていることと近い線のことを書いていらっしゃるのではないかと思われます。(おそらく、コムズカしく。。)
要は終わりなき日常であればその中で楽しく生きようや、ということです。日常の中にイベント性を求めるか、あくまで非日常(リアルなイベント)を求めてゆくかの違いで、私は飽和した現代社会では前者が正解であると最近考えるようになってきました。そしてそれは確信に近いものになってきています。
という意味で逃避の意味に近い「旅行」よりも、「日常の中のイベント性」の権化といってもよい「散歩」が好きなのです。

でも、それだけじゃなくて、上に書かれてあるとおりに、私の生活は「日々の生活そのものが、予期しえない出来事の連続である」自負はありますね。他人と比較すれば。
「日々の生活そのものが、予期しえない出来事の連続である」ことを望んでいるわけではないと考えてはいるのですが、日常の中でのイベント性を維持するために望んでいるような気もします。このへんは、考えに揺らぎがありますね。日常が静かであればそれに越したことはないのでしょうが、都市生活において日常を維持するためには多少は「騒がしい」必要はあるのかな、ということです。

継続することを苦にするヒトは、ホントにカワイそうだなあ、と考えるようになってきています。
人生これから、死ぬまで継続の連続なのに。。 毎日毎日、死ぬまで日課(歯を磨いたり風呂に入ったり ともすれば「起きる」ことと「寝る」ことすら日課です)が続くのに、それ自体が苦であるということは、毎日毎日ストレスを溜め続けて生きていかなければならないということです。
そのストレスの蓄積たるや、想像を絶するものでしょう。たとえば週末にぱーっと息抜きしてストレス解消する、だけではいかんともしがたいぐらいの。