教育 「選ばれたる者」たらんこと
本来の日記部分
- 体調
この鼻水は花粉の影響か? と、そういえばここ数年考えていたのでした。
自分は花粉症ではないのですが、鼻はかすかに花粉に反応しているのでしょうか。
あるいは自分も自覚症状が薄いだけの花粉症なのでしょうか。
- 仕事
夜、神保町
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抜粋・紹介
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「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)
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思っていたより分厚かった。。(しかも、文字がぎっしり)
序章から読み始めているのですがいきなりピンとくる文章にアタっています。ブログ公論で「パンチラインだらけ」と書かれているのもうなずけます。
「ひるがえってみると、現代の日本の若者たちは、その多くが、具体的な表われ方はさまざまであるにせよ(略)「選ばれたる者」たらんことに人生の最大の価値を見出そうとしているのではなかろうか。彼らは「自分らしさ」の顕現に対して、きわめて強い憧憬をいだいている。「この世のどこかに、まだ私自身の知らない潜在的な可能性が私を待っているような気がして」いるのである。しかし、彼らの日常世界をよく眺めてみると、彼らは「個性的な自分」の顕現を強く希求する一方で、その重圧から逃れようと必死にもがいている様子も見えてくる。「自分らしさ」は欲しい、でも自分には何の取柄もないのではないか。いやそんなはずはない、必ずどこかに可能性が潜んでいるはずだ。そうでなかったとしたら、この自分が存在している根拠はいったいどこにあるというのか。ここには(略)アンビバレントな重圧が見え隠れしている。このアンビバレンスの無限駆動は、その内圧があまりにも高いがゆえに、彼らの欲望を他律化してゆく。そして、かえってその自律的な発展を妨げる結果となっている。私には、現在の少年犯罪の特徴にも、その影響が如実に表われているように思われる。(略)現在の少年犯罪には、彼らを圧倒する「個性」に対する反逆としての色彩を見てとることができるのではなかろうか」
「私たちは、少年による事件が大々的に報道されるたびに、「少年犯罪の凶悪化」というイメージを膨らませてきた。「少年犯罪は凶悪化などしていない」などといわれても、そんなことはあるまいと反発し、逆に「少年犯罪の凶悪化はますます進んでいる」などといわれると、「さもありなん」と妙に納得してきた。このような情報選択の傾向は、フェスティンガーが認知的不協和の逓減と呼んだ心理状態に由来すると考えることができる。どうやら、「少年犯罪は凶悪化していない」といった情報は、さまざまな他の情報と不協和をきたしてしまうらしい。逆にいえば、現代の日本には、「少年犯罪の凶悪化」という情報を私たちにむしろ積極的に期待させるような認知要素が数多く存在しているということである。「少年犯罪の凶悪化」は、たしかに私たちを不安におとしいれる情報ではある。しかし、私たちは、なにはともあれ意味秩序の一貫性を最優先させようとするから、動かしがたい他の認知要素と協和させるためになら、不安材料をも喜んで受け入れようとする。むしろそれを積極的に欲するという心理傾向さえ持つのである。」
(抜粋・紹介おわり)
自分がデフォルトで「他人とはちょっと違う何者か」である可能性はゼロなのです。あなたが、スポットライトが当たる場にいないという時点で。
他人とはちょっと違う何者か「である」、ではなくて「たりうる」可能性が、極めて低いけれどもゼロではない、ということなのです。
それを、誰もがそうなれる(可能性がある)とアオる教育なりマスコミなどの存在があります。
可能性は、ありますよ、確かに。でもそうなるには、尋常でない努力が必要なんです。ありきたりな努力ではなれないんですよ。
このアオりと、「1日十分●●するだけで痩せれます」みたいなキャッチとは、同じような気がするんですよね。
儲けのためのアオりならまだわかるのですが、教育の現場においては、なぜゆえにこのようなアオりをいれるのか、よくわからないのです。果たして、子供を何に仕立て上げたいのか。あるいはそのようなビジョンすら持っていないのか。
あれほど個性、ゆとりを重視していたにも関わらず、速攻でゆり戻しがきていることから考えても、「ビジョン」というものはそもそも存在していなかったのでしょう。
仮に、「他人とはちょっと違う何者か」になれるのだとしたら、それは、集団の横にそれただけで、上に上がったわけじゃないんですよ。
似たようなことはさんざん書き散らしているような気がします。この話は自分のツボなので。。