元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

継続というのはなぜ難しいのか たまり場について(再録)

本来の日記部分

  • 体調

鼻水、くしゃみが残る。今回は発熱はありません。
以前も書きましたが、定期的な風邪、ではなく、定期的に発生する「風邪の諸症状」が、身体の毒素を排出するためのものである、と考えれば、これも悪いことではないのかも、と思えます。

  • 仕事

大企業の若手クンたちに対する不満よりも最近は、その大企業の若手クンたちに自虐的にペコペコする中堅会社のマネージャクラスや営業に対して不満、というか違和感、というか哀れみを感じます。
「これも仕事だから」と悦に入っている姿勢がなおさら。。 そもそもサラリーマンでない私には不可侵領域なのでしょう。

なぜか百瀬博教さんと仲が良かったんですよね。あくまで夢の話です。

  • カレンダー(予定の記入というよりはほぼ日記)はこちら

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抜粋・紹介

渡邉正裕さんという方のインタビューの話を書きましたが、この人のインタビューでおもしろかったのがもうひとつ。
それは、自分たちの世代を被害者であると定義していることです。たとえば、自分たちの父親は高度成長期に働きに働いて家庭(つまり自分)をかえりみることをしなかった。そして社会はそれを当然だと考えていた。自分たちは受験戦争に駆り出され、それも同じく社会が当然と考えていた。などなど。

そしてこの人たちのような団塊ジュニアは、自分たちの父親の世代が年寄りになったときにその世代を金銭的に支えてゆかなければならない。
つまり、良いことは何もない世代である、と。

で、そこで、労働組合ニート的にサボタージュする方向に向かうのではなく(労働組合は上の世代の暗喩、ニートは下の世代の暗喩です)、会社組織に見切りをつけつつなお金銭的に自立しているところが素晴らしいではないですか。いってみれば「選ばれた人」なんでしょうけど。

私の考えとシンクロするところがだいぶあるような気がしました。
この人のサイト、有料だけど入ってみようかな。。

再録・継続

同世代間連帯の件の再録(2)

  • 20061023[たまり場について]

(略)
学生を卒業し、働き出してから、「たまり場」のような空間がほしいなあ、と常に思っています。

いついっても、誰かいる、といったような。

イメージとしては、喫茶店とかそういう空間よりは、碁会所のほうが近いかもしれません。

飲食店に限っていえば、自分は「常連」という存在が好きではないので、自分も「常連」にはなるまいと思っているので、自分が飲食店に「たまる」という状況はなかなか想像しにくいです。

でも、自分がなるまいと思っている「常連」のイメージは、相当悪いもので、傍若無人な感じがします。ということは、要はマナーの悪い人種になりたくない、と思っているだけなので、マナーさえ守れれば常連になってもよいような気がします。

http://d.hatena.ne.jp/StevenGerrard/20061002

http://d.hatena.ne.jp/StevenGerrard/20060727

車に乗るようになると、こっそり違法駐車するのが平気になったり、犬を飼うようになると、道端に糞をさせてしまってもそのままにするのが平気になったり、そういう人たちにうんざりしているので、「常連」もその延長ですね。とある店が行き着けになり、「マスター」と顔なじみになったりすると、いきなり態度が大きくなり、他の客のことを考えない振る舞いをするようになる人を自分は相当数みてきました。

「常連」になる人はそれをしたいがために店に通うのでしょうし、店側はお金を落としてくれるので大切に扱わざるをえないし、利害が一致してしまうんですよね。

もともと飲食業界というのは一見に厳しいですし、それは未だに残っています。

話がそれていきそうなので戻すと。。

働き出してから、家が好きになってきたような気がするんですよね。でも、「たまり場が欲しい」という感情が常にあるということは、「家が好き」というのもムリにそう思い込んでいるだけなのかもしれない、と思います。

「たまり場」という言葉を使ってしまったので空間の重要性についてばかり考えてしまいましたが、たまり場が欲しいというのはつまり、「仲間が欲しい」ということでしょうね。

仲間。。 相当青臭い言葉ですね。

自分と価値観を共有できる人たち、ということでしょうか。

まず、「そんな人たちはいないだろう」と考えているような気がするので、その時点で傲慢な考え方のような気がしてきました。

中学・高校というのはおそらく、それが実現できていました。「仲間」がおり、価値観を共有でき、「たまり場」もありました。

中学・高校で実現できていたのに、今実現できないはずがない、という考え自体が間違っているのでしょうか。

先日、中学校が一番楽しかった、ということを書きました。その理由として不安がほとんどなかった、ということを挙げましたが、それをあわせて考えると、中学校時代というのは万能というか、ほとんどすべてのことを実現できていた、ということになります。

その状態に近づこうとしているわけですね。

中学校時代と今は、違いますけどね。。 そもそも中学校時代は親の庇護のもとに暮らしていましたからね。。

で、中学校時代に近づくためにまず何をすべきか、ということで、不安要素を減らすために「お金が必要」という結論に達したのでした。

しかし、「仲間」はお金では買えないわけです。これがポイントですね。

世の中のほとんどのことがお金で解決できる、と思った時点で、「仲間が欲しい」という希望は放棄しなければならないのでしょうか。

でも、「世の中のほとんどのことがお金で解決できる」集団がイコール、「仲間」ということでは? とも思います。

そういう思いを持つ人たちが果たして集団を形成するか? という疑問もありますが。。

それは、「世の中のほとんどのことがお金で解決できる」と考える人イコール「金の亡者」のような、人を信じないような人種という刷り込みがあるからでしょう。

「お金」について考えることが今流行っているので、善人もお金について考えています。

成金にならなくともよい、大金持ちにならなくともよい、と心から思っています。

自分のやりたいことに打ち込めるための余裕資金がほしい、ということです。

その「自分のやりたいこと」が多様化しているのです。

余裕資金を持つとどうしても陥ってしまうお決まりのコース、のようなものがあり、

たとえばベンツであったり、ブランドであったり、不動産であったり。。

そういう方向に向かわない、「ふつーの小金持ちさん」に期待したいです。

自分が価値観を共有できそうな人種の漠然としたイメージは、これでできました。。

これは自分にとっては相当重要なことです。
(略)今までは、仲間がほしい、たまり場が欲しい、といってみても、「じゃあどういう仲間がほしいのか?」というのがわからずにいましたが、何となくわかるようになってきました。
(略)


(再録おわり)

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 継続というのはなぜ難しいのか

継続というのはそれほど難しいものではないと思うんですよ。自分は。慣れているので。
でも、継続することが難しいという話を聞きます。

続けていると、途中で誘惑が入るから、とか人はいいますが、ホントかよ、と思いますね。そもそもそんなにハデな華々しい生活はしていないでしょう。
人の生活はほぼルーティンワークの繰り返しですよね。そこにひとつ新しいエッセンスを機械的に埋め込んで、続けてゆけばよいだけの話です。

朝起きて人は歯磨きをする。(可能性が極めて高い)<=「しない人間もいる!」といったような脱力させる反論を防ぐため
なぜなら、その大きな理由は口臭が気になるからでしょう。つまり、「公」に対するエチケット、といえば聞こえはよいですが、要は他人に嫌われたくないのです。

そういった、日課としてやらないと人間関係や生活を営んでゆく上で不都合である、という動機付けを埋め込めれば。。

本来は、日課として続けると楽しい、という動機であればベストなのでしょうが、そもそも「続けなきゃ」という作業、行動が出てきた時点でそれは楽しくないことなのでしょう。
ですから、ゲーム要素を取り入れるというのは選択肢のひとつかと思います。行動を数値化して、その上昇(あるいは下降)を楽しむ。それをモチベーションにする。

スポーツの継続はそれが用いられていますよね。血糖値だの血圧だのそういう値を正常値に戻す、あるいは、他人より良い値になることがモチベーションとなる、。

ダイエットで、「何を食べてもいいけどやせられる」っていう話がありますけど、あれは、何らかの薬を継続して飲んだりするのでしょうけど、その薬を飲むことの継続すらできないんでしょうね。
「努力しなくてもいいんだよ」と言われているのに、「継続」という努力をまずできないという。。

「何を食べてもいいけどやせられる」っていううたい文句が成立するのは、「食べる」という行為が快楽なのだという共通認識があるのだと思います。

「食べる」という行為、の中でも、カロリーの高い食事を食べ続けるという快楽をやめられないと考えている人(特に女性)が多いということなのでしょう。

まず、なぜ自分はやめられないのか?(「やめられない」と考えているのか?) から考えることでしょうね。
やっと話が戻ってきました。これは、なぜ自分は「続けることが難しい」と最初から考えてしまうのか、という話と似ています。
そこでにじみ出てくる「どうせ自分は。。」という自堕落的なカタルシス。。
それに対して、健全なモチベーションが勝ってくればよいのでしょうね。「人としてどうか」を判断基準にする、というか。

それにしても、ホントに豊かな世界であるがゆえの悩みですね。。 豊かであることに埋没しすぎると豊かでない国の人たちよりも不幸になってゆきます。もったいない。。

この話はどうだろう、続かないかな。。

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