元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

豊かな社会と豊かな自分 行ってなかったところにいける

本来の日記部分

  • 体調

お腹が若干すぐれないぐらいであとは快調です。

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活動・活動に関して(散歩、都市論etc)

  • 行ってなかったところにいける

海外旅行などにカンタンにいけるようになったことの弊害というのは、カンタンであるがために計画性がなくなりつつある、というか。。
そのへんの駅前の旅行会社にふらっといって、空いてたらパック予約して、お金はキャッシングで準備して、身支度はカンタンにすませて。。と、すぐ行けてしまう。
という現実があるということは「旅行なんてすぐにいけるもの」ということになり、「旅行に対して綿密な計画を立てていくのはカッコ悪い」という風潮に変化してゆきます。
そして、その計画を立ててゆくなかで、貯金していたものですよ、以前は。それと、計画を立てている段階がいちばん楽しい、というのはよくいわれることです。


という話が本題ではなかったのですが、最近、国立新美術館とか表参道ヒルズとか、行こうと思ってなかなか足を運べなかったところにさくっと行けて、小さな幸福感を感じているのです。
自分のB・C級グルメ道も似たような感じです。行きたいところ(宿題店)が常にいくつかあり、時間に都合をつけて、わざわざ電車を乗り継いでいくという過程や、「行けるということ」そのものに対して幸福感があります。それで、食べたものがおいしかったらベストですがそうでないこともあり。。 でもそれはもっとも重要な要素ではありません。
まず「行きたい」という欲求が満たされるということ。食べ歩きであれば、健康であるからこそできるということ(健康への感謝)、ある程度小遣いがあるからこそできるということ(働けるということへの感謝)、などなどが幸福感を形成する要素です。
自分の「活動」についていえば、まず、都心に住んでいなければ都心のスポットにはさくっと行けないわけです。ですので、住んでいる場所への感謝というのもあります。それが地元意識にもつながってきます。それと、都心に住むという決断をし、実行した「過去の」自分に対する感謝です。これが自分の精神的安定の基礎になっています。「自分の行動は(いろいろいわれたりしたけど)やっぱり間違っていなかった」という確信。


こうやって感謝、感謝をしてゆけば、「産んでくれた両親に感謝」までたどりつけるのでしょう。でも「この自分を産み、育んでくれたmother earthに感謝」とまでなったらやりすぎのような気がします。日本という国に感謝、までならいいかな、と。自助努力を続ける覚悟がある人間にとって日本、東京、都心というのは非常に暮らしやすい場所になってゆくでしょう。


でも、ホントにいいたかったことは、行動可能な範囲で幸福感を得られるように自己設定ができていないヒトたちはカワイソウだな、ということです。皮肉もこめて。。
自分の身の丈(可処分所得?)をわきまえずに、洒落たイタリアン、フレンチでディナーしなければ幸福感を味わえない、あるいは、海外でブランドものを漁らないと幸福感を味わえない、とか。。

具体的には、数百円、数千円の出費と自分の「足」で稼げる行動範囲で幸福感を得られるようにしておけばそれで十分ではないか、と思うのですが、マスコミに煽られ続けているとそうもいかないのでしょう。

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 豊かな社会と豊かな自分

つづき。
豊かになった社会における自分のミッションというのは、豊かな生活をすること、なわけですね。
それはコトバを替えれば、「豊かな生活」が一極集中されては困る、ということです。豊かになった社会、というのは、豊かになった社会「インフラ」ということであって、各自にとってみれば豊かになるベースが整っているにすぎません。社会が豊かになったからといって自動的に自分が豊かになるわけではないのです。それは、奇しくもこの日本が戦後、証明しているのです。

そして、豊かな生活をゲットするにはどうするか。。
お金があればある程度の豊かな生活ができる、という話は大前提で、誰もがうすうす感じているのは、富が集中しているところに「豊かさ」も集中しているとは限らない、ということです。なぜならば、豊かさには「幸福度合い」の尺度が絶対的に存在しているからです。

そして、その「幸福度」を上げるためには。。
これは自分は、方法は知っているのですが実践できていない、という。。

まず、「他人の芝生」をみないということ。
次に、自分の身の丈を知り、身の丈にあったゴールラインを(他人やマスコミに惑わされず)設定すること。何をもって自分が「幸福」を感じるか、というのは、自分でコントロール可能なのです。

これらを、知らないというか、うすうす知っていても目をそむけているヒトは多いですよね。

ここまでである程度の「幸福度」は得られます。庶民レベルの。。
「他人は他人、自分は自分」を徹底して、身の丈にあった生活をしていればけっこう幸せなのです。ただし「ヒトはヒト」を徹底していないとすぐに邪念が入ってきます。それは生活レベルという上での「競争意識」のようなものですね。
その邪念をコントロールするのは、この現代社会ではけっこうたいへんかもしれません。


これらは自分はけっこう以前からわかっていたのですが、これにプラスして最近とみに考えるのは、「幸福度」を上げるためには自己節制も必要なのだな、ということです。
自分が「豊かな人間」にふさわしいヒトになるべく努力するということです。これが、次の段階なのでしょうね。
「『豊かな人間』にふさわしいヒト」になるためには、自己節制できるというのは絶対条件です。それを、わかっているようで、わかっていなかったような気がします。

その「『豊かな人間』にふさわしいヒトになる」手段は、お金を積んで経験を積むとか海外旅行に行ったりするとかそういう今流行りの「自分を磨く」とは全く異なるベクトルにあります。そういうところから脱却できていないひとはまず前提である「『他人の芝生』をみない」というところからやり直しです。そういうヒト、多すぎますよね。

「自分を磨く」は、後工程です。自身が豊かになっていないときのそういう経験は、所有欲、金銭欲などを膨張させるだけで、ほとんどムダかもしれません。ある程度の節制がなされ、「豊かな人間」にふさわしいヒトになった後には、有効であり、黙っていても自分は磨かれてゆくことでしょう。
(子供は別ですよ 子供はわけのわからない段階でのそういう経験は必要かもしれません)

投資の考え方と似ていますよね。。 余裕資金があって精神的に「豊か」であればあるほど、お金は勝手にたまってゆく、という。。

そう、そして、お金の話はまたその後、最後の段階なのです。
自己節制の中には、お金の節約もあるでしょうし、仕事上での節制という考え方もあるでしょう。そして、そういった節制がある程度なされ、「豊かな人間」にふさわしいヒトになってからお金のことを考えてもよい、ということです。「『「豊かな人間』にふさわしいヒト」というのはつまり、まだ「豊かな人間」にはなっていないということですね。
ヒトとしてのベースができてから投資等について考えてもぜんぜん遅くないでしょう、と。むしろ「満を持して」ということで、成功の可能性が高まるのではないかと考えます。

世の中の大多数のヒトが間違っているのは、今自分が書いた3番目をすっとばしてお金のことを考え始めるところです。3番目とは、自己節制のところです。一見、投資には周り道のように見えるこの「自己節制」が、最も大事になってくるかもしれないのです。
まあでも、その前に。。 大部分のヒトは3番目をすっとばすどころか、その前の1、2番目すらすっとばしてますけどね。。1、2番目とは ・「他人の芝生」をみない ・自分の身の丈を知る です。
だから政治家などに「庶民」とかいわれてバカにされ、「庶民にはわからんだろう」とすっとムチャな法案を通されてしまったりするのです。自分はそれが悔しくてたまりません。


他人よりもまず自分、という考え方を利己的だの自己中心的だの非難される時代もありました。今はそんな言説は無視できる時代になってきているでしょう。

豊かな人間には社会貢献の義務があります。この場合の「豊かな人間」というのは、必ずしも金持ちではないのです。(相当重なるかもしれませんが。。)
だから、私含めた庶民の寄付行為って、どうもコッケイにうつるのですが。。
「寄付」というコトバがいけないような気がします。


いやー、久々に筆が乗ってしまいましたが。。
最後に書いた「庶民の寄付行為」についてもう少し書けるだろうか。。
なにかインスピレーションがわいたらいずれ。