元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「苦労を今しておくこと」についてふたたび

トピック

  • 体調

引き続き軽い鼻づまり。その他は順調。

  • 裏にみえる調整

東京メトロ全日空(?おそらく)の営業提携、とか、そういう話を耳にすると、、
その裏で行われたであろう激烈な「調整」が透けてみえます。透けてみえるようになった自分はオトナになったなぁ、と思ったりもします。

  • リアクション体質

昨年までは、マスコミから流れてくるニュース、スポーツ、あるいは芸能関係に対するリアクションとして自分の考えが形成され、それが固まらないままにまた情報が流れてきてまた様々な思いが発生し。。の繰り返しだったように思えます。

石を投げればぶつかる「ウォッチャー」たちと何ら変わりはなかったわけです。
自分の「思考」というリソースを、マスコミの洗脳しようとする意図を含む情報に対するリアクションだけに消費してしまうのは、本当にもったいない。(【重要】)

自分について

  • 「苦労を今しておくこと」について ふたたび

自分が、自分の土俵ではないところにあえて身を置く(仕事でも何でも)というのは自分の中では「苦労」にあたるわけですから、もう不要なのでは? と考えています。
仕事でいえば、その仕事のキツさ云々の話ではありません。。仕事がキツくとも自分の土俵であれば自分はいくらでもやれます。たぶん24h働けます。逆に自分の土俵でなければ毎日定時、土日必ず休みのサラリーマン生活であっても耐えられません。(金がムチャクチャよければ別ですが。。そんな経験をしたことはないので)
この話はどこかに書いたな。。
飲みでもそうです。とにかく場違いなところ、居心地が悪いところ、集団にはいたくないのです。それも土俵違いのひとつの例です。


いいかげんそういう「苦労」はもういいじゃん、と切に思うのです。新たなフェーズの「苦労」はもっと高いレベルの、自分の土俵の上でのキツい負荷を「New苦労」としましょう。
人生後半戦の「苦労」はそれです。自分の土俵というのは、新たなステージということ。そこで繰り広げられる「苦労」が、自分の次のステップの精神的成長につながるのです。(【重要】)

人生観、のような、「こうありたい」的な、または反面教師

  • 受動的な集団

受動的な現場(「受け身体質」の人間が集まる)で主体的な動きを見せるといいようにコキ使われます。そして疲弊してゆき、自分も受動的になってしまいます。昔の人はよくいったもので「朱に交われば赤くなる」と。。
始めからそういう現場に入らないことが肝要なのです。ネガティブな集団は、それはそれで勝手に存続してゆくのですから、あえてそこに飛び込んで変えてゆこうなどという殊勝なことを考えなくてもよいのです。自分に「合ってない」集団(現場)というのは自分の土俵ではありません。(さっきの話の続き)
いたるところにそういう「合ってない」現場はあります。属する集団の最初の選択が肝要です。それができれば苦労はしないのですが。。合わない集団にいるぐらいだったら独りでいるべきです。(【重要】)


いたるところにネガティブな集団が存在し、存続しているということは、そこにハマる人にとっては非常に住みやすい世の中になっているということです。それは、イメージとしては「ぬる〜い」集団(自分がキラいな、時間にもルーズで、ルールもゆるめに設定されている集団)が思い浮かびますが。。世の中そういう集団ばかりになっているような気もしますし、それはそれでいいのですが、それだったらなぜ、世の中が殺伐としていっているように感じるのだろう? ぬる〜い集団ばかりなのに。

閉鎖的でネガティブな集団が点在し、そこに属さないエリア(数学でいう「反集合」?)、つまり、外、ストリート、公の場、etcは殺伐としてゆきます。その二極化が進んでいるということでしょうか。だとしたらその中で「家族」の位置づけはどうなるのでしょう。家族という単位はネガティブであっても殺伐としていてもいけない。ルールがびしっとしている「暖かい」集団でなければなりません。

この話、「マスコミによる洗脳完了している人たちにコミットするのはとにかく馬鹿らしい」につなげたいところ。