元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「宗教観」にまで達しない 「苦労を今しておくこと」につい

トピック

  • 大手企業の若手

いつものことになってきましたが、誰もが名前を知っている大手企業の若手(特に、20代後半〜30代中盤ぐらい)の人たちの高飛車な態度に辟易しています。
間違ったエリート意識。。

その時期はもしかしたら、仕事が面白くなってきているのかもしれませんが、仕事というよりは「人を使うこと」が面白くなってきているのかもしれないですね。


そしてその偽エリートと仕事上お付き合いしていかなければならない、という自分の10年来のストレス。。
仕事上お付き合いするのであれば、真のエリートの方々と交流させていただいて、刺激を得たいものです。

自分について

般若心経についてのインタビューを興味深く読みました。
今の自分にとってはなかなか良い示唆が含まれていたように思います。

読んで考えたことがふたつ。。
まず、「自我を滅すれば幸せになれる」というのは自明のことであり、いずれ到達するであろう結論だということはわかっています。
自分は(多分他の方々も)、自我を滅せずとも「ある程度」幸せになれる方法をずっと考えているのだと思います。

「自我を滅する」という状況について、今のところはまだ「出家」とか、「山奥で仙人になる」といったようなイメージしか持てないのです。

次に、「祈る」についてですが、
祈りたいという気持ちは、「何に対して」祈るかというのはおそらく枝葉末節の話であって、祈りたくなる気持ちは大切にしたいものである、という気持ちを新たにしました。

極限状態などに陥ったときに、何か「超越した存在」に祈るというのはごく自然です。それを否定するのはそういう状態に陥ったことがない方々でしょう。
自分の器ではいかんともしない状況では、「自分を信頼する」だけでは、ちっぽけな自分は全くこころもとない存在なのです。

宗教観、といったような話になってくるのでしょうか。。 今はここから話が進みません。
ただ、「宗教」という言葉がうさんくさいのであって「信仰」についてはもっとオープンに話しがなされてもよいのではないかと思います。

  • 「苦労を今しておくこと」について

このキーワードも、寝かしておきたいというか。。
「苦労は買ってでもしろ」という言葉は好きです。「艱難汝を玉にす」という言葉は、ドラえもんを読んでいたのでかなり子供の頃から知っていました。

これらを、他人に説教してまわったら印象は悪そうですが、自分は常に自分に説教していたような気がするのです。

苦労は今のうちしておかなければならない、という強迫観念のようなものがあり。。
なぜこのような観念が植えつけられたのか。。 それを探るのがテーマなのでしょうが、「大器晩成」とリンクするのは間違いありません。

自分の人生の後半戦(にもう突入していますが)は苦労知らずで花開かなければならないわけです。そのために、年取ってからの苦労の分をすべて今経験しておきましょう、と。

苦労を「しなければならない」と思い続けているということはまだ「苦労している」域に達していないのかもしれません。

どこまでストレスがたまれば苦労と認定されるか、というのは、完全に私的な話なので私しかわからないことです。(そして、私「にも」わからない)

ですが、前半が苦労の時代、後半が花開く時代で、もう後半に入っているという認識があるのであれば、苦労は一旦総括しなければなりません。