元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

中ネタ集 会社シリーズ(自分の現場での思い出)

トピック

  • 書き出したい小ネタがありすぎて、本題に進めない。。

外食・食べることに関して

面白かったこと・良かったこと

youtubeでアップされているガキの使いの過去のトークをちらちらと見たのですが、面白かったです。おぼえているものですね。一時期は毎週見てましたから。。「見なきゃいけない」と思っていました。

そういえばgoogleと提携したそうで、検索をかけるとyoutubeは上のほうにきますね。

オレも、わたしもそう思う、と言ってもらいたい

  • 切符の扱い

切符をポケットにいれておくと、改札を出るときにどこに入れたのかわからなくなり、必ずあたふたするのに、やめられない。。

モノには決まった配置があって、それを逸脱すると必ず迷います。部屋の中で、小物などをちょっと別な場所に一時的に置いたつもりが。。もう数年出てきません。

何か重要な示唆が隠されているような気はするのですが。。「モノには決まった配置があって」は良い出だしだと思うのですが。。 ちょっと保留です。


嫌いなタイプ

  • 「横並び」は別にいいのだけれど

たとえば誰かが安いクーポンを持っていたら自分も持たなければいけない、といったような、人と同じように得しなきゃ、楽しめなきゃ損、という考え方は否定しませんが。。
誰かが休んだら自分も休まなければならないでしょうか? チームの中で誰かが休んで、その日の自分の負荷が上がりました、と。それを、短絡的に「損した」「自分も休んで、取り返さなければ」と思うのは、人としてどうかと思います。
そんな邪悪なことを考えなくとも、世の中持ちつもたれつなのですから、自分の不手際で他人の負荷を上げていることはあるはずなのです。それが休みという形をとっていなくとも。


必要以上に「隣の芝生が青」く感じる人が多すぎるような気がします。枯れた言葉ですが「人は人」でいいじゃないですか。

ところで、「人と同じように〜」よりも、もっと天邪鬼な考えをもつほうが商売であれば成功するのでしょう。

会社シリーズ(仕事論含む)

  • リーダをやったときの苦い思い出

昔、とある現場のとある仕事でリーダクラスの仕事を任されたときに。。
メンバを早めに帰させていたら、周りから相当妬まれました。
「早く帰ってるんだから、ヒマなんだろ?」などと言われ。。
ふつうに、結果は出しているのです。なぜ、早く帰るとヒマだと思われるのか。。 その当時から疑問でした。
我々は、やることをやって成果も挙げた上で早く帰っているのに、さらに他チームの余分な負荷を背負いこまされようとされるわけです。他チームは、作業の効率化をしない故の余分な負荷なので、それを自分たちが背負い込む理由はありません。
つまり、成果云々ではなく、単に、「皆で残業しようじゃないか」というきわめて日本的な考え方です。

阿呆らしくなったので早々にその現場は引き上げましたが。。


そのときに非常に問題だったのは(自分の無力さを痛感したのは)、メンバを早く帰させるのはいいのですが、自分は常に終電、あるいはタクシーという生活だったことです。
チーム外からの不当な仕事の依頼などは自分がブロックし、メンバが定時内に出来ない仕事は自分が引き受け。。 などとやっているとどうしても自分の帰りは遅くなります。

現場のマネージャからの評価も上々で、残ってくれと言われましたが、精神的にも肉体的にもムリでした。


このときの経験が、今に活きています。
とにかく、もう嫌だ、と思いました。「いいように利用されている」と。


自分は、その現場の会社の社員ではないわけで、責任者としていわゆる「プロパ」(社員)がいるわけですが、そのプロパはひどいものでした。すべて「任せます」。
良い結果しか聞かず、悪い結果は良い結果に転換するまで聞かず、さらに、成果はすべて自分のもの。
相談にいっても「この案件にはタッチしていないのでよくわかりません」(この言い訳をするために、意図的に関わってこない)、他部門との調整を依頼しても「状況を把握していないので、詳しい人がやってください」
そのくせ、私のことは自分が舵を取っている、「オレが動かしている」と他人には吹聴しているわけです。

世の中の会社全体がモラルハザードで、こういう人材ばかりになってきていることは、後から知ったことです。


それと、「部下は選べない」ということです。
部下のミスはすべてリーダの責任、というのはわかりますが、それであれば自分が希望するメンバでチームを組みたいものです。「だったら自分が調整して、他チームからメンバーを引っ張ってこい」とまで言われます。

部下が、指示を待っている人たちばかりだと、いつまで経っても業務にダイナミズムが生まれてきません。仕事に対する姿勢は、その人の「素養」ですので、一朝一夕で言ってどうなるものでもありません。
リーダは部下の社会人としての教育まで責任範囲となってきます。がそもそもその必要はあるのでしょうか?

優秀な人材がそろっているチームに属する、という幸福な経験をしたことが一度あり、そのときの、皆が主体的に動き、リーダがびしっとしているときに生まれるダイナミズムというのは、「快感」に近いものでした。あれが続くのであれば、自分は肉体的にキツくとも仕事というものを好きになれるかもしれません。
が、その幸福は長くは続きませんでしたが。。


まず、自分にリーダの素養はない、というのは十分認識しつつも、「まっとうな人間は会社組織にはいられない」と心から感じたのでした。。
先日も書きましたが、20:80の法則というのがありますが、中堅ぐらいの会社だったら、会社を牽引している優秀な人たちは10ぐらいです。さらにそういった優秀な人たちは不確定要素(いつやめるかわからない)で、常に組織としてしっかりしている大企業に取り込まれる可能性を持っています。

この、中堅ぐらいの会社の選りすぐりの10の人たちが、もっともキツいのではないでしょうか。こういう方々はもっと能力を発揮できるところに解放してあげたほうがよいと思います。