元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

時間の浪費を減らしたい 平均寿命は下がる

【外食】
[昼]
赤坂竹亭で鴨ラーメンを。初参戦。
【雑感】
[平均年齢は下がる]
自分はここ数年でだいぶ、時間を有効に使おうという思いが強くなってきています。これも、歳なのでしょうか。
考え方が、若い頃と比べて顕著に変わったのが、「浪費はムダである」というのと「時間がもったいない」という考え方です。浪費については以前書きました。そして、浪費を抑えるというのは、自分の意志でなかなかいいところまでいくのですが、時間を有効に使うというのはなかなか難しいと考えています。
http://d.hatena.ne.jp/StevenGerrard/20060912

その理由のひとつは、言い訳なのですが、仕事の終了時間が一定でないことですね。1日のスケジュールがだいたい予測できるのであれば、時間を有効に使えると思うのですが、帰宅時間がばらばらなので、どうしても「仕事は伸びるもの」として仕事優先で時間を考えてしまいます。また、仕事が増えると睡眠時間が減り、週末にまとめ寝してしまったりして、週末を有効に過ごせなかったと後悔することになります。

思えば高校ぐらいから、もう少し時間を有効に使いたい、と思い続けているようです。これが自分にとっての「小さなストレス」です。

仕事というものが自分の全人生を賭けるに値するものであって、かつそれにより十分な報酬が保証されるのであれば、睡眠時間を削ってでも自分の時間の大部分を仕事に注いでもよいと思うのですが、今の自分は仕事は楽しいものではなく、報酬のための単なる手段である、と固く考えてしまっています。
http://d.hatena.ne.jp/StevenGerrard/20060901
これはもう、長い時間をかけて自分のなかで醸成されてきた考え方なので、もうなおらないと思いますし、この考えが悪いことだとは思っていません。仕事に対して会社やマスコミに振り回されて幻想をもたされ、楽しみや充実感をムリに求めてゆこうとする流れよりはよっぽどマシではないかと思います。

考え方としては、浪費を減らすのと同じで、ムダな時間の過ごし方を極力減らしてゆこう、とは考えてきました。これは、少しずつではありますが実践してきました。とはいっても、簡単にいえばテレビの視聴を減らすということだけですが、これがすべてといってもいいかもしれません。
テレビを完全否定しているわけではないので、見たい番組は選択して、録画し、空いた時間に見るようになりました。おかげで、見たい番組だけ見ているので、自分の週に何度かある「録画視聴タイム」はとても楽しいものになってきました。
ただ、テレビ視聴が減ると、ムダな「ネットサーフィン」(今、世間でこの言葉に代わるのはなんでしょう)が増えてきて。。たとえば一時期は、ニュースサイトやスポーツ新聞系サイトをそれぞれ複数チェックして同じニュースを何度も閲覧したりしていましたが、これらも徐々にではありますが断ち切ろうとは思います。考えてみればこれもテレビと同じで、マスコミからの情報を断ち切ろうとする流れですね。
それとメール。。 メルマガももっと厳選しないと。。

ところで、このブログというものに対する関わり方にはいろいろな意見があるようですが、自分は、このように制限もなくだらだらと自分の思いを書き連ねながら自分と対話している時間は非常に貴重で、ブログを始めてよかったと思います。自分と向き合っている時間は有効です。

時間を過ごすことを時間の浪費としないためには、やりたいことを厳選して集中することだ、という結論になりつつあるのですが(この歳にしてようやく。。)、その詳細はまた別な機会にして。。
このように時間を有効に過ごすことが徐々に実現できたとして、待っている結末は「早死に」だと思います。これは、間違いないです。なぜかというと、時間を有効に過ごせるということは自然、「太く短く」という生き方になっていくからです。
「太い」人生を実現できている先達は、たとえば定年をすぎてからすっぱりその生き方は止めて細い生き方にシフトすることはできないでしょう。年取っても精力的に「動いてしまう」ことになるでしょう。
まあ、早死にするはずが自分が意図しないところでボケ老人になってしまい、不本意なまま長生きしてしまうことはあるかもしれませんが。。

時間を有効に使いたい、という流れに乗ろうとしている人は、余生はあまりないものと考えて、老後の人生設計とか考えないほうがよいのではないか、と思います。

それと、そういう意識を持っている人だけでなく、現代人(特にビジネスマン)は望む望まないに関わらず昔より「忙しい」はずなので、自然と「深く短く」の人生にシフトしてしまっていると思います。バブルからそれ以降を生き抜いた世代はどんどん早死にし、平均年齢は下がってゆくことでしょう。豊かになって栄養を容易に摂取できるようになったからといって長生きできるとは限りません。むしろ今は栄養は過剰で、それが早死にの原因になってゆくでしょう。
言い方を変えれば、今頑張っている人も「頑張らせられている」人も、太く短い人生を送っている、と胸を張ってよいと思います。望む望まないに関わらず。。(しつこいですが)

忙しいということはストレス過多ということです。それが早死にの原因です。ストレスを減らそうと思っても現代社会はストレスが向こうから勝手にやってきます。

でも、何か矛盾に近いものを感じているんですよね。。「ムリしない」精神で低ストレスでスローライフロハスな人生を送っているほうが長生きできる。。つまり、今この時間を有効に使いたい、とあせらないほうが長生きできるということです。人間が一生に消費できるエネルギーはそれほど変わりはなく、太く生きている人は早めに燃え尽きてしまう。

「それでいいのか?」というこの思いの根っこはなんなんだろう。不公平感でしょうか。「長生き」というものを素晴らしいものと規定しているからでしょうかね。長生きが「ごほうび」であるのだとしたら、それは太く生きてきた人に贈られるプレゼントであるべきなのに、実際はそうではない。
ということは、長生きしてもこの日本の次の時代はロクなことはないだろう、とでも考えてみれば、不公平感はなくなってゆくかもしれませんね。
それと、身体がきかなくなっても生きるとさらにストレスがたまるだけ、とか。。
なんだかネガティブな結論ですね。。
太く短く、に疲れたり、飽きたりしたら、またそこで考え直して細く長い人生にシフトしてゆけばいいんでしょうね。そう、強く思うのは、若いときから(「若い」というのは老年の前まで含む)細く長い人生の送り方して楽しいのかよ、ということです。そういう人達にかぎって、現状に満足できずに「本当の自分はまた別に。。」とか、余計な考えを持ってしまって無用なストレスをためていたり、それが反社会的行為として暴発してしまったりするわけです。
誰もが充実した人生を送りたいとは考えているでしょうから、その手段についてはじっくり考えるべきだと思いますね。そこで、考えるために「教養」というのは有効になってきます。「+−×÷だけおぼえれば社会で生きてゆける」と考えている人は現代社会では絶対に充実した人生は送れないでしょう。それは一面では正しいですが、あくまで「健康で文化的な最低限度の生活」を送れるだけで、充実した人生を保証してくれるものではないのです。