「托鉢で太るべき」
前にも書いたと思うんだけど、托鉢者は太るのが道理っていう話ね。
托鉢って食べ物を恵んでもらうわけでしょ。で、この現代社会で、どこの家をまわったって残飯恵んでもらったとしたらみーんな高カロリーなわけ。
で、托鉢ってのは絶対に断れない。すべて、高カロリーだろうが脂っこいものだろうが、ありがたくいただかなければならない。
自然、太るわね。坊さんって運動もしないしね。掃除はするかもしれんが。
昔と真逆なわけ。昔はどんなに粗末な残飯でもありがたくいただきます、と。今はどんなに油っこくて、「おえっ」となりそうであってもありがたくいただきますと。
この話はなんか象徴的でしょ。
それと。。なんていうのかなあ。こういう絶対服従の関係性って、もはや絶滅危惧種でしょ。
たとえば弟子入りとか? 職人の世界で未だあるんだっけ。あったとしても俺からは遠く離れた世界だ。
まあ、あったとして。
弟子は、師匠がカラスを白いといったら弟子もはい、白いですと言わなければならないみたいな?
自分がどう思ってるかどうかは一旦すべて「おいておく」のね。
そうそう、ひとことで言い表すと、弟子は師匠のすべてを「清濁併せ呑」むべきなんですよ。
それはなぜかというと自ら望んで弟子入りしてるわけだから。
いや、呑むどころの話じゃない。たぶんね、極端にいえば「恍惚と甘受する」ぐらいの気構えが必要なの。そうじゃないと弟子入りなんてやってらんないよ。
そこまで徹底できるかどうか。
ってそもそも別にこの現代社会でやんなくともいいことなんだけどな。
托鉢の話に戻ると、いただく残飯はやけに甘ったるくて、ジャンキーで、けっこうおいしいのかもしれないけど、まったくの高カロリー。はっきりいうとほとんど「毒」。この「甘ったるいの」を「甘受」するってことなんだよ。甘受ってのは精神的な話ね。
つまり、肉体的にも「精神的にも」ぶくぶくと太るのです。
あー、すっごく重要なところにタッチしてるんだけど、うまく言い表せないのはもどかしい。
読んでいる方が「なんとなくわかるような気がする」と感じてくれるのであれば嬉しい。