元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

友達と固まる習慣

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宋文洲
日本の社会においては、友達作りをまるで至上命題のように考える人が多いのです。国内外の単身赴任をみても「子供をお友達から離したくな い」という人が多いのです。家族を連れてコロコロ転勤すると「子供達が可哀そう」というのです。私にしてみれば家族団欒よりもお父さんよりも友達を選ぶこ とのほうが可哀そうだと思うのです。

この古い友達と固まる習慣は、実に子供の成長に良くないと思うのです。子供のうちに友達のいない環境 に飛び込み、そこで慣れて行く経験こそとても貴重だと思うのです。たとえその過程で友達が本当にできなくても構わないのです。そもそもなぜ友達がいないと いけないのでしょうか。

私は北朝鮮に近い国境、カザフスタンに近い新疆などを転々して少年時代を過ごしました。すぐ友達ができない時期も ありましたし、そもそも原始林の中に住み、周りに民家がなかった時期もありました。それでも私は精神障害もなければ不良になる訳でもありませんでした。な ぜならば私には愛してくれる家族が常に居たからです。

山東省の故郷に戻って同年代の「友達」がたくさん居た時期がありましたが、文革の影響で私は彼らに虐められました。その傷を癒してくれたのもまた家族でした。「あなたは悪くない」と慰めてくれて逃げ方や反抗のやり方を教えてくれました。

人生の中で誰でも本当に大好きな友達が居るはずです。しかし、その数は精々数人でしょう。死ぬまで名前を覚えて数十年ぶりに再会してもまるで昨日に別れたような感覚を持ちます。でもよく考えてみれば彼らはずっとそばに居ないからこそ死ぬまでの心の友人になったはずです。

日 本の教育現場では「お友達がたくさんできました」というのが決まり台詞です。親も子供も「友達が少ない」ことに怯えます。何が何でも「友達がたくさんでき ました」を目指します。学校から戻ってきてほっとした子供に親はすかさず「今日もお友達と仲良くできましたか」とプレッシャーをかけます。

その子供達がやがて成人して組織に入ります。同じように孤立しないことを最大な目標として「友達作り」に励むのです。ただ「友達」といわず会社の同僚、先輩、上司との「友好関係」です。一番恐ろしいことは他ではなく、周りから干されないことです。

そのため、異なる会社や業界への転勤はそれまでの財産である「友好関係」を捨てることになり、なかなか踏み切れません。それでも耐えきれなくて転職を考えると「あたしと子供達のことを考えているか」と奥さんに言われたりします。
まるで環境を変えることは家族を路頭に迷わせる行為のようです。

「困」と「囚」を眺めると先人の知恵が見えてきます。木を囲むと木が困ります。人を囲むと人が囚われます。古い友人の居る環境は居心地がいいかもしれませんが、それは自ら困り、自ら囚われることでもあるのです。

命はより遠くの命と出会うことによって繁栄し、人はより遠くの人と出逢うことで成長するのです。本当の友達とは別れても思う人であり、本当の出逢いとは未知との巡り合いです。