元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

卓越した運

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芸能の世界をはたから見ていると強く感じるんだけど、
もちろん、ビジネスの世界にも応用はきくと思うのだが、

とにかく、成功の秘訣は「卓越した運」だと思う。
これは、もう、間違いない。どう考えても。

そして、運というのは「結果的には」平等に皆持っている。
その事実を「認識」していないヤツがとても多い。

ヘンにいじけちゃってね。「どうせオレなんか」的な。。
そう考えた瞬間に「運」的には終了~なんだがな。
一回そう思ってしまったらそっから運をつかみ直すのはタイヘンだぞ?

つーかほとんどのビジネスマンは、勝手に、一回はそう思い込んでしまっているから、みなそこから「運」的に這い上がることができずにいる。
残念~!


「卓越した運」とやらを引き寄せるにはどうしたらよいか?
なんて、オイラは知ってるよ。
ホンキで引き寄せたいと願うヤツは、ハスに構えないでやってみればいい。
どうせやらないんだろうけどな! 行動を起こさないヤツには運はやってこない。これも鉄板の法則だ。

「運はやってこない」という状況を、強力に引き寄せるヤツばっかだから、この国のビジネスマンは。


相当かみくだいて教えてあげても、やらないんだったら、もうその人の人生は「終了~」だと思うけど。

別に、成功しなくとも平々凡々に人生過ごせればいい、なんて思ってる人、いるのかもしれないけど、この21世紀にこの国で平々凡々に暮らすことがどれほど難しいか。。
わかってないヤツが多い。

さて、「卓越した運」を持つには、自分がすでに卓越した運を持っていると思い込むことだよね。雑念なく。

これが必須の前提条件。これがクリアできないと何も始まらない。

だって、持ってるんだもん。
戦後、戦争が60数年ない平和な世の中に生まれ落ちたこと。
文化豊かな素晴らしい国(日本)に生まれ落ちたこと

「人間に生まれた」のは相当な運のはず。にもかかわらず、さらに自由で文化的で飢えのない国に生まれ、育っているという事実。。
これを「卓越した運」といわずしてなんといおうか。

ここまで読んでさ。。ハスに構えんな! 心ん中で反論すんな!(もちろん、ネガティブなコメントもしないでねw)

事実としてそうなのだ、ということを認めること。

今自分が、日本で生きているということが「卓越している」と認めることができれば、そういう「できた」人間にはもっともっと卓越した人生が展開される準備が完了する、と、そういうわけさ。

現状を認めないヤツにはステージは用意されない。どころか、呼ばれもしない。



前回書いた前提条件をクリアできれば。。という条件だが、
「さらに」「卓越した運」を引き寄せるにはどうしたらよいか?

これもカンタン。
そして、前提条件をクリアできている人間はけっこう選ばれた人間に近いものがあるから、素直にやれることが多い。

つまり、カネ的に、富む者にますます富が集まるのと同じように、「卓越した運」も、ふんだんに運をもっている人間にますます運が集まってしまう。残念だったね。運のない(と自己認識してる)人たち。

だから一回、ハスに構えるのもやめて、素直になってみろっつーの。


で、具体的な話だが。。人生はプラスとマイナスのバランスである、ということは、どうやら多くの人間が納得感あるらしいのね。

たとえば、いろいろツキがあって絶好調! という感じの人に対して「調子に乗るな」と進言してくれる人もあるし、多くのツキのある人は「このままずっと良いことばかりではない」と、ゼッタイ自動的に感じる。それを潜在意識に押しこめちゃうか、そう感じた結果何か行動を起こすか、はおいといて。

何か良くないことが続いたとしても、(こんだけ悪いことが続くんだから)次はいいことあるさ、と素直に思えるのが、ふつうの日本人だ。

ところが!
すげー落ち込むようなこととか、びっくりするぐらいうれしいことっていうのは、なんつーか、自分にとって「極限」なわけ。ふだんはそういうことってめったにおこらない。

ふだん、オイラたちはいろいろな選択をしたり行動したりしているうちに軽くムカついたり、軽くうれしかったり楽しかったり、そういう経験を無数にしてるわけね。で、そういうのは100%忘れる。なぜなら、「取るに足らない」ことだから。取るに足らないことってのは人間は忘れるようにできてんの。

ということは、そういうプチうれしいプチムカつく経験のときは、「次はいいことあるさ」とか「慢心しないようにしよう」なんて微塵も思わないわけ。そりゃそうだよね。ほとんど意識してないんだからね。

そして、まったくニュートラルな経験も、実は膨大にしている。ていうか、感情をちょっとでも揺り動かされる経験、のほうが、少ないんだよね。

そういう、ちょっとだけ感情を揺り動かされる経験も、まったく感情が動かない経験(行動)も、すべてひっくるめた、「人生プラマイゼロ」なんだよね。

すげえいいことがあったからすげえ悪いことがある、というわけでもない。すげえいいことのあとに微妙に悪いことが続いて結果的にプラマイゼロなのかもしれないし。
微妙に悪いことが続いた結果としてすげえいいことが起こった(結果、ゼロリセットだから、その後悪いことは起こらない)のかもしれない。

オイラたちが「いいことがあった」「悪いことがあった」と、意識の上で認識してることなんて、ほとんど比率としてはゼロに等しい。

あー、前提を書いているだけで終ってしまった。つづく


今日は本題ズバリ、から。

「プラマイゼロ」を自分でコントロールするんだよ。
それは、カンタンにできる。

具体的には、「率先して『損』をとってゆく」ということ。

これを、古(いにしえ)の賢人たちは「陰徳」という言葉で表現した(のかもしれない)

いろんな媒体で書いているんだけどね、たとえば、公共の道でゴミが落ちていたら、拾うんだよ。
アナタに、それを拾う義務はないよね。皆無だよね? でも、拾うの。
これで、「マイナス」ポイントゲットお!

こうやって「損」(マイナス)をためてゆく。
そうすると、いつか得(プラス)が。。「爆発」するかもしれないし、しないかもしれない。

プラスは、「じわっと」くるかもしれない。
気づかないかもしれない。
でも別に、いいんだよ。

まったく気付かないパターンとしては、よく言われるのは、何か虫の知らせがあってある日ある場所に行かなかったところ、その場所で事故があった、とかね。

たとえばさ、「ケガ」を「回避する」という行為、経験というのは、実は「爆発的な」プラスなんだよ。
本人は「爆発的な」とは思わないみたいだけど。

陰徳を積んでいって「プラスのできごと起こらないかな~」と、見返りを期待する時点でNG。であればやっても意味はない。
それはそもそも「陰」ではない。

ふつうの徳であれば凡人でもやれる。そして凡人には爆発的なプラスはやってこない(でしょ?)。

たとえば、さっきの例でいえば、周囲の人間に賞賛されたいから、という下心で公共の道のゴミを拾うのでは、「悪くはない」けどそれは「損をとってる」わけじゃない。

だって、賞賛される可能性が残されている時点で、完全なるマイナスの経験じゃないもんね。

それは、ビジネス、ていうか戦略でしょ? それはそれで、やっとけばいい。生きるために。

でもそれは「損をとる」とは違う。


むちゃくちゃ急いでるときに、道端で知らぬ女性が、体調ワルそうにうずくまっていたり、するよね?
そこで、躊躇することなく声をかけるんだよ。「大丈夫ですか?」と。
その後の展開は、そのときの流れに任せればいい。「大丈夫です」といわれればアナタは何かの約束に間に合うかもしれないし、救急車を手配するとか、そういうハメになったら間に合わないだろう。
でもそれにより「爆発的な」マイナスをゲットしていることになる。


そういうことです。