元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

自由になりたくないかーい?(尾崎)

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僕の人生(半生)をひとことであらわすと「自由になりたい」とそれだけだったと思います。

本当の自由とは? を常に考えてきたおかげで、世の中の、自由を謳歌しているかのようにみえるヒトたちのほとんどは不自由である、という確証を得ることができました。

自由、イコール「楽」でもないし、自由イコール「楽しい」とは必ずしもいえません。なぜなら、多くの場合自由とは「独り」だからです。独りは別に楽しくもないし、いろいろ自分でやらなければいけないので楽ともいえません。

今日、結果的に自分はフリーの立場で仕事をさせていただいており、さらに、この仕事で家族を養っていけることに感謝しておりますが、20代の頃は、自分のことを就職もできない劣等人種であると信じて疑っていませんでした。

その後、1、2度のビッグウェーブがきた後に、自分は他のヤツらとは違う(スゴいヤツ)と劣等感の裏返しで調子に乗るようになってきました。それまでのうっぷんを晴らすための、非常に強い反動でした。
ところで、劣等感に苛まれていた時期の前、まだ社会に出ていなかった頃も、やはり自分は、まだ世の中のことを知らないという立場を最大限に利用し、自分はヒトとはちょっと違うと思い込んでいました。その体現としてサブカルチャー方面にいってしまったのは、苦い思い出となっています。

さて、40歳をすぎ、今は自分を優等とも劣等とも考えていないように思います。「自分はそれなりに幸せに生きている」という自信だけはありますが。。
そういうことは考えるに至らず、ニュートラルな状態に近づいています。おそらく、落ち着くところに落ち着いたのでしょう。

今現在、会社組織に属していないのはそれは必然であり、自分が優れている(独りでコトを進められる)からでも劣っている(集団に適合できない)からでもなく、ここまで強く「自由になりたい」と願っているのだから会社に属するわけはないのです。

もっとも、それは僕の話であって、ガチガチの組織の中であっても一点突破して、自由になれる強者はいるのだと思います。ただし、僕はそれが(おそらく)できないのです。

僕は、人生のところどころで、熟考の末にいくつかの大きな決断をし、それだけではなく、毎日毎日無数の選択をしながら生きており、それらが積み重なって僕なりの「個性」になり、僕なりの、物事に対する「アプローチ」の「型」がぼんやりと固まりつつあるようです。